【導入】
アズベリー神学校でのリバイバルについてのビデオ紹介:今月8日、アメリカのケンタッキー州ジェサミン郡ウィルモアという人口6千人ほどの小さな町にあるアズベリー大学の神学校で起きたリバイバルの様子。2月8日の定例の学内礼拝が終わった後、祝祷が終わっても、何故か皆帰ろうとせず、帰ろうとせずというよりも、帰ることが出来ないほど、聖霊の臨在が豊かにあったため、そのまま礼拝が続けられ、その中で、証し、悔い改め、祈り等、ずーっと続けられて、1日24時間休みなく先週の月曜まで続けられた。今は、余りにも全米から人が集まって来るため、町も混乱してしまい、大学側は、21日の火曜から夜の集会だけにして、それも大学ということもあったのか、25歳以下の人だけ、と限定して続けてられている。この大学のリバイバルは、トロントとかスミストン、またペンサコーラの時のように、人が倒れるとか、笑いが起こるとか、カリスマテックな激しい聖霊の現われはないようだが、悔い改めと癒し、解放、平安、静かな喜びが溢れているリバイバルのようだ。この神学校では過去にも何度か、似たようなリバイバル、聖霊様の訪れがあり、直近のところでは1970年にも、やはり同様のリバイバルが起きているとのこと。
【本論】
何故これを見てもらったかというと、どうしてアメリカにだけこのようなリバイバルが多く起こるのかは分からないが、今も世界の何処かで、このようにリバイバルは起きていて、決して神様はアメリカだけではなく、日本や他のすべての国の人のことを忘れてはおられない、ということを確認し、そして、より一層、熱く求めて行きたいからです。
※神様は、この日本にも必ずリバイバルを起こされます!リバイバルというのは、信仰の復興、刷新、聖霊の傾注、癒し、解放、救い等、神から離れている私たちの、聖霊様の働きによる、神様への回帰、神様への悔い改めのすべてのことを言うが、今、神様はこの終末の時代、このリバイバルの働きを力強く推し進めようとされていることを信じます!アーメン!
しかし聖書を読むと、教会が誕生して以来、凡そ約もう既に二千年近くが経っているが、教会が誕生して未だそんなに間がないその時に、もうリバイバルなんか来るはずがない、なんて言う人たちがもう現われていた。そんな人たちに対してペテロはこう言っている。
Ⅱペテロ3:1~11:「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」
この箇所は、主の再臨に関するペテロの弁証です。ある人たちは「主の再臨などない。」と主張していたので、その主張に対して、ペテロは終わりの時代の「悔い改め」と、再臨と深い関わりのあるリバイバルの重要性について語ったのです。それは、終わりの時代の終わりには「火の裁き」定まっているので、ひとりひとりがその火による裁きによって滅びることがないように、悔い改めに進むようにというメッセージであった。
Ⅴ9b:「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあるように。
リバイバルはそのための備えであるということです。このことが、今日の聖書個所のマタイ3章では、バプテスマのヨハネの証言として、次のように言われている。
マタイ3:11~12:「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
ヨハネはここで、先ほどのペテロが言っていた「イエス様の再臨による終末の火による裁き」の前に、「聖霊のバプテスマ」があり、そして、その後で「火のバプテスマ」というものがあることを語っている。その「火のバプテスマ」とは、神の火による裁きであり、同時に私たちの聖化のことでもある。この聖霊と火とのバプテスマをイエス様は私たちに授けられるというのである。
私たちは自分たちの罪を認めて、その罪から離れるために、神に立ち返るために、イエス・キリストを信じた。それによって、私たちは罪の赦しを受けた。そして同時に聖霊のバプテスマを受けたのです。これは、「どうすれば罪の赦しを受けることが出来るだろうか?」と、ペテロにユダヤ人たちが尋ねた時の、ペンテコステの日のペテロの説教の中で明確にされている。
使徒2:38:「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
そして、この時受ける聖霊によって、私たちを絶えず信仰が刷新され、即ちリバイバルされ、そして、絶えず「悔い改め、神への立ち返り」へと向かわせられるのです。それは、聖霊様の大切な働きの一つだからです。
ヨハネ16:8:「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」
だから、もし信仰生活を送っていて、「ああ、私はまだ駄目だな。罪深いな。なかなかきよくならない。いつも罪を犯してしまう。」と思ったら、幸いです。それは聖霊様が働いているからです。聖霊様がそのことを教えて下さったからです。だから、むしろ感謝しよう。しかし、感謝だけではなく、その上でさらにしなければならないのは、その示された罪について、また義について、またさばきについて、私たちの考え方を方向転換し、悔い改めよう。そして、神の義を求めて、神に立ち返ろう!―これが私たちのリバイバル、悔い改めです。
※神は豊かに赦し、神の義と平安と喜びで、豊かに満たして下さる。イエス様はそのことを、山上の説教の中で語っておられる。
マタイ5:3:「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
マタイ5:6:「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」
また、イザヤも、当時の神の義に飢え渇くユダヤ人たちに次のように語った。
イザヤ55:1~2、6~7:「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」、「【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
だから私たちは、主が来られるまで(主の再臨まで)、神の義に飢え渇いて、神の義を求めて、リバイバルし続けて行こう。「義」というのは、神様との正しい関係です。私たちは、地上の信仰生活を送っている間、完全に神様との関係において「完全に義である」という人はいない。どこかしら、ずれている。だから私たちは、神の義を求めるのです。
【結論】
皆さんはどうだろうか?神との関係において、義に飢え渇いていないだろうか?―神様は私たちに対して、そうであって欲しいと望んでいる。飢え渇いて求めて欲しいと望んでいる。
Ⅱペテロ3:9~11:「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」
ちょうど、BPのヨハネが悔い改めのメッセージを語って、主の来られる道を備えられたように、今は聖霊様が絶えず悔い改めのメッセージを私たちに語り続け、そして私たちに、さらに神の義を求めるようにと、その再臨の主の道を備えておられるのです。
だから、リバイバルを求めよう!神の国とその義を第一にして、それに飢え渇いて、それを求めよう!
―祈り―
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