先週の金曜(17日)、新宿シャロームで行われた東京リバイバル実行委員会に行くために、久しぶりに大久保の町に降り立ったが、アジアのどこかの国の町に行ったような雰囲気であった。新宿シャローム教会のすぐ斜め向かいには赤と金色で飾られた派手な建物があって、それは台湾の仏教寺院だった。何故そうなった。そこに住む人たち、そこで働く人たちが、そのような国の人々だからです。そこに住み、そこで働く、その町の中味である人によって、町の様子も変わるということである。
今日は「新しい皮袋の教会」というタイトルでメッセージを取り次ぐが、教会はよく「教会は新しい皮袋である。だからそのような教会にならなくてはならない。」とよく言われる。聞いたことがあると思う。では、その「新しい皮袋の教会」とはどういうものか?どういう教会が新しい皮袋の教会なのか?今日、みことばから見て行きたい。
【序論】
V33:「彼らはイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。』」
彼らとは誰のことか?―それは、前の箇所、Ⅴ30~V32に出て来るパリサイ人やその派の律法学者と呼ばれている、モーセの律法を研究し、学び、教え、その教えに忠実に生きようとしている人々、簡単な言い方をすると律法主義者、或いは、当時はまだそういう言い方はなかったが、イエス様の死後、特にイエス様の教え、キリストの教えとの対比の中でそのような言葉になったユダヤ教徒と呼ばれる人々のこと(ガラテヤ1:13~14)。ユダヤ人としての教え、伝統に忠実な人たちのこと。
彼らは、Ⅴ27~V32を読むと、レビという取税人がイエス様の弟子になって、その弟子になったことの喜びのため、仲間を集め宴会を開いたところ、そのことを咎め立てするかのように、イエス様の弟子たちに向かって、Ⅴ30:「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」と問い質した。それは、彼らはモーセの律法により、決して罪人や取税人たちとは席を一緒にしなかったからである。彼らは汚れた者であって、決して一緒になってはならないと考えていたからである。パリサイ人のパリサイ=(へ)「パールーシュ」は「分離する者」という意味。そうすると、それに対して、イエス様は次のように答えられた。
V31~V32:「そこで、イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。5:32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」
彼らは、このイエス様の言ったことが恐らく理解できず、余計に向きになって、V33:「彼らはイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。』」と言った。それに対するイエス様の語った三つの譬え話の中の一つが、今日のメッセージタイトルで使われている「新しい皮袋」のこと。この「新しい皮袋」とは何のことだろう?3つの意味がある。
【本論】
(1)全く新しい「時代、時」のこと。皮袋とは「時」のこと。
イエス様は彼らにこう言われた。
V34~V35:「イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。5:35 しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」
これは最初の譬え話だが、この譬え話を聞けば、ユダヤ人の彼らには、イエス様が何を言おうとしたのか、イエス様の言われることを信じるかどうか、受け入れるかどうかは別にして、理解できる。何故なら、譬え話というのはそういうものだから。
ユダヤでは結婚式が行われると、7日間盛大に祝われた。それは喜びと祝福の時だった。イエス様はそのことを引用して、「花婿」これは御自身のこと、自分が救い主として、「病人を招くため、罪人を招くために来て、そして、悔い改めに導いているその働きを行っている間は、誰も断食をしない。何故なら、それは素晴らしい神様の御業を見る喜びの時だから。「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」(V35)とあるように、「イエス様が彼らから取り去られて、十字架に付けられる時が来る。その時には、悲しみを表す断食をする。」と言われたのである。
※ここでイエス様が言おうとしているポイントは、「時、時代」の違いのこと。つまり、「時が違う」ということである。イエス様は、彼らが信じているモーセの律法、また預言者の書に示されている通りに、メシヤ、救い主としてお生まれになった。「預言が成就して、新しい時代になった。」その時の違いについて、イエス様は次のように言われた。
ルカ16:16:「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」
律法と預言者の書で預言されていたメシヤ到来の預言が成就した。なので、今は、神の国の福音が宣べ伝えられている時、恵みの時、救いの日なので、喜ぼうというのである。だから、「今は断食する時ではなく、預言の成就の喜びの時。だから祝宴を開いている。だから罪人や取税人たちと共に喜んで食事をしている。」と言われたのである。
教会が「新しい皮袋」と言われる時、教会である私たちも、そのように「今は恵みの時、救いの日」(Ⅱコリント6:2)と言われるイエス様と共に、この恵みのよる働き、救いのための働きをする時なのである。このことを覚えたい。そして、
(2)(新しい皮袋、それは)新しい原理、力によって生きる「生き方」こと。皮袋とは「生き方」のこと。二つ目、三つ目の譬え話がそのことを教えている。
V36~V38:「イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。『だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。5:37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。5:38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。』」
この譬え話は、何度も引用され、またメッセージとしても語られているので、余り沢山を語る必要はないと思うが、この譬えを通してイエス様は、新しい着物の布切れが持つ力や新しいぶどう酒が入った新しい皮袋の持つ力は、救われた私たちの内に働く聖霊の力、その原理、その考え方、見方、生き方のことであって、それは異なる性質を持った古い着物の布切れや古いぶどう酒が入った古いぶどう皮袋とは自ずと異なって来るので、それを弁えて生きて行かなければならないことを教えているのである。ここで言う「古い」とか「新しい」というのは、時間的な古さや新しさのことではなく、事物の本質や性質の違いを意味する言葉である。
私たちは、モーセの律法や預言書が示す救い主イエスキリストの誕生により、新しい時代に生かされ、そして救われた者として、新しい皮袋にふさわしく生きる者でなければならないのである。そのようにして、聖霊の力によって宣教のわざを進め、御霊の実をも結んで行くのである。(使徒1:8、マルコ16:16~20、ガラテヤ5:18~23)
だから、ここで注意しなくてはならないのは、イエス様は決して「古い着物は駄目、古い皮袋は駄目である。」ということは言っていないということです。ただ、布切れに関して、「古い物には合わないのです。」(V36)と、「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。」(V37)と、持っている性質の違いについて言っているだけなのです。むしろ、V39:「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」とあるように、古いぶどう酒、古い皮袋の良さを認め、古い着物、古い皮袋に対する慈しみさえあるかのように、語っている。それはどういうことだろう?―ここに第三の意味がある。
(3)新しい皮袋のいのちは新しいぶどう酒にある。ぶどう酒がいのちである!
先週の木曜、杉戸の地域牧師会が行われた春日部教会で見た礼拝堂にあった古い長椅子と講壇の椅子のこと。また壁に貼っている、教会誕生以来召天された方の写真のこと。そこには、今年創立127年(1896年7月6日創立)を迎え、建物としては70年目を迎える教会の歴史が刻まれていた。因みに、最古の和戸教会は創立145年(1878年、明治10年創立)であって、そこには、時の流れ、積み重ねによってでしか造られないものがある。そして、その時の流れ、歴史というものは、そこにいのちがあって、そのいのちがずーっと育まれ、つながって来て、今日の教会がある。その歴史、古さというものは神の恵みであって、新しいいのち=新しい葡萄酒が時の経過の中でもたらしたものなのである。それはかけがえのない神の恵みであり、古いぶどう酒のように味わい深いものである。
※私たちもそのような皮袋、新しい皮袋の教会になりたい、あり続けたいと思う。
【結論】
その鍵は、その皮袋の中に新しいぶどう酒があるかどうかであるということ。たとえ救われたばかりの、産まれたばかりの新しい皮袋のクリスチャンや教会であっても、そこに新しいぶどう酒がなければ、その皮袋は何も変わらず、ただ古びて行くだけ。しかし、中に新しいぶどう酒があれば、それは変わって行く。変えられ続けて行く。そして、その中にあるぶどう酒は、新しいぶどう酒ではあるけれども、時間の経過と共に、同じ「古いぶどう酒」となって、美味しい味を生み出すのである。
だから私たちは、私たちの中の新しいぶどう酒が発酵し続けることが出来るよう、新しい皮袋であり続けよう。新しいぶどう酒の持つ力、原理、生き方、考え方、見方に従い、それによって生き続けて行こう。
―祈り―
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