【前置】
いよいよヨシュア記の最後の章、24章から「ヨシュアの訣別説教②」として、「民の契約更新」というテーマでヨシュア記の講解説教の最後のメッセージを語る。昨年の1月から始まって、ほぼ1年と2か月、途中飛ばすところ(15章~19章の、9部族とマナセの半部族への相続地の分割記事)はあったが、これで、ヨシュア記の講解説教は終わる。
【本論】
V14~V15:「今、あなたがたは【主】を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、【主】に仕えなさい。もしも【主】に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、【主】に仕える。」
と、ヨシュア記の有名な聖句が出て来るが、ここがヨシュア記のハイライトであり、また結論でもある。その結論を述べるに当り、ヨシュアは、Ⅴ14:「今、…」と言って、重要な結論を言うのである。その結論と言うのは単純です。これまで何度もいろいろな場面で語って来たように、それは前半のV14にあるように、「あなたの神である主に心から仕えなさい。そして、その神以外の神があなたの心にあるのなら、その神を除き去りなさい。」という、神の民、同じく信仰者である私たちに求められる信仰の本質、その純粋さ、聖さです。
そして、それを言うに当たり、ここでも前回同様、過去を振り返り、これまでの彼らイスラエル民族の始祖であるアブラハムから始まって、彼らが歩んで来た神の民としての道程をV2~V13で語っている。そして、Ⅴ14:「今、…」と言って、「だから今から、これから、こうしなさい。」という遺言的、訣別説教としての命令、勧めを語っているのである。それが今日の箇所である。その最後の箇所だけ見てみよう。
V13:「『…わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。』」
さて、今日のメッセージに戻るが、今日のメッセージの中心は、この箇所でヨシュアが語ろうとしている、さきほどこの箇所の結論であると言った「あなたの信仰の純粋さを保て、あなたの神だけを神として信じて、仕えよ。」ということです。それで、Ⅴ15a:「もしも【主】に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」と、ヨシュアは民に言うのです。でなければ、信仰の純粋さを保つことが出来ないからです。イエス様もそういう意味で、信仰とはどういうものかということを、次のように言った。
マタイ6:24a:「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
そう!これが信仰です。人には何を信じるかの自由が与えられているが、何を信じるかは重要です。それにより、どのような結果に至るかが決まるからです。そしてこの時、ヨシュアがこの最後のメッセージを語ろうとして、V1:「ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、…」のように、シェケムという所に民を集め、この訣別説教をしているのも重要なことであった。
何故、民をシェケムに集めたのか?―それは、「契約の更新」と言う点で関連がある。シェケムとは、エバル山とゲリジム山との間にある地で、かつてヨシュアはこの地にイスラエルの民を集め、半分をゲルジム山の前に、あとの半分をエバル山の前に立たせて、律法の書を読んで、祝福とのろいの言葉を聞かせた。それを行なったのは、彼らがアイの町攻略に失敗した後に、エリコの町の攻略の際に聖絶のものに手を出して罪を犯したアカンを聖絶し、民をきよめて、再びアイの町を攻め取った後のことだった。それは彼らに、神に反逆して罪を犯せばどうなるか?ということを教えるためであった。従えば祝福があり、従わなければ呪われるという律法の教えである。そのことは8章に記されている。
ここでは、その再現であり、その契約に再びスポットライトを当てることでもあった。つまり、民をシェケムに集めた理由は、以前彼らに教えた契約の契約更新であって、彼は民に対して、神御自身と契約を新たにするようにと迫っているのである。また自らも「自分も自分の家族もそうする」と、一人の神に対する信仰者として、その決心を表したのである。それが、ヨシュアが民をシェケムに集めた理由である。
では、何故彼らはここで契約の更新をしなければならなかったのか?ということである。その理由は単純、―「ねばならない」からです。何故ヨシュアはこの訣別説教を民に語ったのかを、その理由を思い返してください。それはどうしてだったか?
ヨシュア23:1~2:「【主】が周囲のすべての敵から守って、イスラエルに安住を許されて後、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。ヨシュアは全イスラエル、その長老たちや、かしらたちや、さばきつかさたち、およびつかさたちを呼び寄せて彼らに言った。『私は年を重ねて、老人になった。』」
彼は思い残すことのないよう、語るべきことを語ろうとこの最後の説教を語ったのです。たとえ自分がいなくなっても、民が神に対する信仰を失わずに、罪を犯すことなく神に従って歩むことが出来るように、教えを残しておこうとしたわけです。それで、今まで何度も語って来たメッセージを、彼らとの応答の中で、繰り返して語っているのである。彼らはここで3度繰り返している。
初めは、Ⅴ14~V18:「今、あなたがたは【主】を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、【主】に仕えなさい。もしも【主】に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、【主】に仕える。」すると、民は答えて言った。「私たちが【主】を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。私たちの神、【主】は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行い、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。【主】はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、私たちの前から追い払われました。私たちもまた、【主】に仕えます。主が私たちの神だからです。」これが第一の問答。
第2は、Ⅴ19~V21:「すると、ヨシュアは民に言った。『あなたがたは【主】に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。もしあなたがたが【主】を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。』それで民はヨシュアに言った。『いいえ。私たちは【主】に仕えます。』」
第3は、Ⅴ22~V24:「それでヨシュアは民に言った。『あなたがたは、【主】を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。』すると彼らは、『私たちは証人です。』と言った。『今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、【主】に心を傾けなさい。』民はヨシュアに言った。『私たちは私たちの神、【主】に仕え、主の御声に聞き従います。』」
3度繰り返されているということを見ると、私たちは何かを思い出すか。―そう!十字架に架かる前に、弟子との最後の晩餐の席でイエス様がペテロに言った言葉「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』」(マタイ26:34)。そしてその後の、イエス様が復活された後に、ペテロに「あなたは私を愛するか?愛するならば、私の羊を飼いなさい。牧しなさい。」(ヨハネ21:15~17)と言った言葉です。
「3」は完全数なので、このヨシュアと民との間に、神に対する信仰の確認が3回為されたのである。でも、それで彼らは彼らの主に対する信仰の確約を守ったと思うか?―守っていない。それは、その後のイスラエルの民の歴史、次の「士師記」に入ってみれば一目瞭然だが、しかし、「士師記」に入らないでも、このヨシュア記の終わりを読むとそれが何となく分かるような言葉が出て来るのである。
ヨシュア24:31:「イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、【主】がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、【主】に仕えていた。」
これを読むと、人はどれだけ罪深いのだろうか!と思う。しかし、人がどんなに愚かで罪深くても、神は諦めることなく、何度でも私たちに契約の更新を、契約の刷新を求められ、それを行なわれるのである。
テトス3:1~6:「あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」
【結論】
私たちは今、次世代が起こることと、その次世代への信仰の継承、またその世代の次の後継者、モーセからヨシュアに、民を導く指導者としての後継がなされたように、私たちもそのような後継者を求めている。なので、そのために大切なことは、先ず、今日の結論である、私たちが自らが「私と私の家とは主に仕える。」という信仰の告白と決心をすることである。契約の更新をすることである。
―祈り―
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