【前置】
今日はアドベント3週目、来週はクリスマス。本来ならばアドベントらしいメッセージが良いかもしれないが、南越では来週のクリスマス礼拝で今年の礼拝が終わるので、1年の締め括りとしてのメッセージを、2週早いが、今日したいと思う。聖書個所は詩篇90:10~12。
【聖書個所】
詩篇90:10~12:「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」
【序論】
あと2週間余りで、2023年も終わる。この1年、皆さんにとってどんな1年だっただろうか?
この詩篇はモーセによって書かれた詩篇で、またモーセの神への祈りが記されているということで、「モーセの祈り」とされている。その中でモーセは、人の一生は儚(はかな)く短いものだ。それだけではなく、その儚く短い一生も、労苦と災いで満ちていると詩(うた)っている。しかし、その詩(うた)は、神を知らない、神を信じていない人たちが、その儚(はかな)さをただ嘆きだけの詩ではなく、Ⅴ11:「だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。」とあるように、神の全能さ、偉大さ、聖さ、義なるお方であることを知って、その神に対する恐れ、神に対する信仰を持っている者のみが持つことが出来る、神に対する願い、神に対する期待、神に対する望みの溢れた詩でもある。だから、この後、V13~V15のように、人生の儚さ短さを嘆き悲しみではなく、そのような中で、喜び、楽しみで満たして下さいと、喜びを、楽しみを求める祈りの詩が続く。
V13~V15:「帰って来てください。【主】よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。」
今日はこのモーセの祈りから、初めに言ったように、私たちがこの1年を振り返って神に感謝し、新しい1年を迎えるに当たり、期待に溢れて迎えることが出来るためには何が重要か、何がその鍵であるのかを見て行きたい。
【本論】
モーセは先ほど読んだように、ただ労苦と災い、嘆きに満ちた人生に見えても、そこには喜びや楽しみ、明るい未来がある。だから、その喜びと楽しみで満たしてくださいと、大胆に、確信をもって、期待をもって祈っている。
何故そのように祈ることが出来るのか?―嘆くことしか出来ないように見える人生を前にして、どうして、喜びと楽しみを期待し、それを求め、それも確信をもって祈ることが出来るのか?―その鍵が、Ⅴ12にある。
V12:「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」
「自分の日を正しく数えること」とは、正しくその日数を数えるということでなく、「自分の人生、与えられた命の大切さを、有難さを、正しく理解することが出来るように教えてください。」ということ。つまり、「私たちの人生、いのちというものは、すべてを造り、すべてを治めておられる神が、ただ恵みによって私たちに与えてくださったものなのだから、その神の恵みの有難さを、大切さをほんとうに知ることが出来るように教えてください。」という祈りなのです。
そうすれば、その後祈っているように、Ⅴ14:「どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。」という祈りが成就するという。神の恵みの有難さ、価値、その大切さを知って、感謝して毎日を生きることが出来るようになるというのです。「朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。」が叶うというのです。
ある牧師がブログに書いていた。「感謝することの反対語は何か?―それは、不平や不満、文句を言うということではない。感謝することの反対語は、すべてのことを当たり前だと思うこと。」だと。そう!「そうなって当然。もらって当然。…。」のように、すべてが当たり前だ。すべてが当然だと思う所に、決して感謝は生まれないのである。
「感謝する」ということは、そのように、「当たり前ではないこと」が「当たり前のようにある」から、「有難く思う」のです。「当たり前のように、有り難い、有り得ないこと」が「当たり前のように有る」から、「有難い」のである。つまり、すべてが恵みなのです。新松戸リバイバルチャーチ50周年記念式典(10月21日)で賛美された「恵み」という賛美にも、そのような歌詞がある。
ところで、聖書に登場する人物で、この神の恵みを本当に知っている人、心底体験した人物の一人にパウロがいる。勿論、他の使徒たちや、他の聖書記者たちも皆それを知っていると思うが、パウロの場合は、0~(+)100というよりも、(ー)100から(+)100という位、本当に心底神の恵みに触れた人物である。だから、彼はこういう言葉を残している。
Ⅰコリント15:9~10:「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。15:10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」
ハマスやヒズボラなど、イスラエルを敵のように思い、この地上から抹殺してしまおうと思っている人が、イスラエルの神、イエス様に出会って、全く回心することがあるならば、人はこの神の恵みを本当に知るならば、何一つ当たり前のように思うことなく、有難く思う。感謝せざるを得ないだろう。すべての事の中に神の恵みを見出し、神に感謝するだろう!
※私たちもこの1年を振り返り、そのように感謝しよう。
次に、神の恵みは私たちに、このような感謝を生み出すだけではなく、神の恵みは私たちに、もっとその恵みを求めさせる、大胆な信仰、飢え渇いた心、大きな期待感を持たせる。
モーセは、Ⅴ12で、「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」と言って、Ⅴ13~V15で、「帰って来てください。【主】よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。90:14どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。90:15あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。」と大胆に言っている。
それは、モーセが「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」と言って、神の恵みの有難さを知ったが故に、大胆にその恵みにすがって、神に喜びを、楽しみを、祝福を求めているのである。
他の聖書中の人物も見てみよう。ダビデもパウロ同様、この神の恵みを、その有難さを十分に知った人である。それ故、彼は神に大胆に祝福を祈り求めた。
Ⅱサムエル7:27~29:「イスラエルの神、万軍の【主】よ。あなたは、このしもべの耳にはっきり、『わたしが、あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。7:28今、神、主よ。あなたこそ神であられます。あなたのおことばはまことです。あなたは、このしもべに、この良いことを約束してくださいました。7:29今、どうぞあなたのしもべの家を祝福して、とこしえに御前に続くようにしてください。神、主よ。あなたが、約束されました。あなたの祝福によって、あなたのしもべの家はとこしえに祝福されるのです。」
この大胆な祈りの根拠は、次にある。
Ⅱサムエル7:18~20:「ダビデ王は行って【主】の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。7:19神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。7:20神、主よ。このダビデは、このうえ、あなたに何をつけ加えて申し上げることができましょう。あなたはこのしもべをよくご存じです。」
ダビデは、自分の主の目には取るに足りない者であるにも拘わらず、神の恵みによってイスラエルの王に選ばれ、ダビデの子孫によって、イエス・キリストによってその王国はとこしえに建てられるという約束が与えられた。それらはすべて神の恵みであることを知り、ダビデは大胆にその祝福を求めたのである。
【結論】
私たちもあと2週間余りで新しい年を迎える。神様がダビデに与えた祝福の約束は私たちにも与えられている約束である。それは一方的に恵みによって与えられた祝福である。だから、私たちも大胆に、モーセのように、ダビデのように、神の恵みによる祝福を求めよう。
健康、癒し、救い、来年の働きの祝福、豊かに実が結ばれるようにと、私たちは神に大胆に祝福を求めて祈ろう!
―祈り―
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