【聖書個所】
ローマ1:16~17:「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」
【タイトル】
「教会が誇りとするもの」
今日はこの個所から、私たち「バイブル・クリスチャン・フェローシップ」を構成する教会として、何を誇りにして存在し、何を誇りにして働く教会であるかということについてみことばを取り次ぎたい。
【本論】
皆さんは何を誇りに生きているか?人々は何を誇りとして生きているだろう?―ある人は容姿に、ある人は身分や立場に、ある人は業績に、ある人は富や名声を誇りに生きているかもしれない。一昨日、大谷翔平が2年ぶり2度目のアメリカンリーグMVPに選ばれた時、出身地の岩手県奥州市で町の人々の声が訊かれたが、多くの人たちが顔を輝かせて、「大谷選手は私たちの誇り、町の誇りです。」と言っていた。町の人たちは、自分のことではなく、自分たちの町から出た大谷選手を自分たちの誇りに、自分たちの町の誇りとしているのである。―私たちは何を誇りにしているだろう!
誇りはその人を生かす!誇りはその人を輝かせる!誇りはその人に命を与え、生きる力を与える!
パウロはそのことを自ら経験し、「私は福音を恥とは思いません。」言い換えるなら、「私は福音を誇ります。」と言った。パウロはそれまでは、この世の人々と同じように、自分の身分や立場、成し遂げた業績や人の評価を誇りに生きていた。しかし、彼はイエス・キリストに出会い、福音を知って以来、それまで自分が誇りにしていたものは何の価値もない、塵芥に過ぎないと言ったのです。
ピリピ3:5~9:「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」
と言って、「キリスト・イエスを知っていること」、「キリストを得ていること」、「キリストの中にある者と認められていること」、「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持っている者になったこと」を誇りにしていると言った。この「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義」というのが、ローマ1:17で言う、「ユダヤ人であろうとも、ギリシャ人であろうとも、福音を信じるすべての人に与えられる救いであり、神の義」というもので、その義は、「信じた者を信仰から信仰へと進ませる神の力である」と言うのです。
この「神の義」の「義」というものは、神学的には神との関係における関係用語で、「神の前に罪赦されている」とか「神の前に正しいとされている」ということ。所謂、「義とされる」とか「義認」とか言うことだが、それだけではなく、「神の義」というものは、「神の前にまっすぐである。神の前に誠実である。神の前に偽らない」という「正義、公正」という意味合いも含まれている。つまり、神様御自身の性質、本質をも表しているのです。
引用:赤穂浪士は、何故彼らは「義士」と呼ばれたか?!―それは、彼らの主君に対する「忠誠心」(忠誠を尽くして、誠実、誠を尽くす)と、決心したことは最後まで貫くという「忠義」ゆえです。これは神様御自身の性質、本質でもある。
だから、もし私たちが福音を信じて罪赦された者、義とされた者になったならば、神様御自身が、御自身の義をもって、私たちを救いから救いへと、信仰から信仰へと、救いのゴール目指して歩むことが出来るように力を与えて下さるのです。それが、「私たちを信仰から信仰へと進ませる神の義」です。私たちの力ではない。それは神から来る神の力です。
パウロはそのことを身をもって経験したので、福音から離れ、神から与えられた義を捨て、また昔の律法の行いによる自分の義に戻ろうするガラテヤの人たちに、緊急な思いを持って手紙を書き、その終わりで、次のように書いて手紙を〆ている。
ガラテヤ6:14~16:「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」と。
パウロは、かつて自分が誇りにしていた「律法を行なうことによる自分の義」ではなく、私たちを義とするために十字架に架かって死に、墓に葬られ、三日目によみがえられた方の義、それを信じることによって与えられる義、すなわち、「神の義」、「救い」を誇って生きることの大切さを、ガラテヤの人々に書き送ったのである。
皆さんは何を誇りに生きているだろう?私たちは何を誇りにして生きて行けば良いのだろう?―聖書は明確に、私たちを義とするために死んで下さったイエス・キリストを誇るように、十字架を誇るように、福音を誇るようにと教えている。何故なら、そこに私たちが生きる力、神の力があるからです。
【結論】
私たちは今年BCFとして2年目に入っている。来年は3年目に入り、法人認証の目標としては再来年の2025年の秋をゴールにしているが、法人認証だけでなく、私たちはこれからも私たちのために十字架に架かり死んで墓に葬られ、三日目によみがえって下さった私たちの救い主、主イエスキリストを崇め、この方を誇りにして、この方によって与えられる力によって歩み、この方を証して歩んで行こう!このお方を私たちの誇りにして歩んで行こうではないか!
最後に、今、イスラエルのハマスに対する攻撃が続けられているが、旧約聖書のみから見るならば、彼らにはハマスを攻撃する正当性を認めることが出来る。しかし、新約聖書の、それもパウロがここで福音と読んでいるイエス・キリストの十字架の視点から見るならば、その正当性は薄れて行くと思う。何故ならばパウロが言うように、ユダヤ人にとっても、ギリシャ人、パレスチナ人にとっても、すべての人にとって、福音のみが救いを得させる神の力、神の義だからです。だからそのためにも、イスラエルの人々のためにも、またパレスチナの人々のためにも、彼らの目が開かれ、イエス・キリストの十字架と復活を見ることが出来るように祈ろう!と同時に現実に、人質の解放のためにも、これ以上戦いが続けられて、命を失う人の数が増えることのないように、祈ろう!ネヘニヤフ首相を始め、ハマスのリーダーたち、世界のリーダーたちに神からの知恵と助けが与えられるように、祈ろう!
※この方のみが、私たちの誇りだからです!
―祈り―
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