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2023.11.12 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ガラテヤ3:29~4:7

【タイトル】

「神の子とされた恵み」

【前置】

質問:「皆さんは神の子ですか?」―私たちはクリスチャンとして、また救われた者として、「私は神の子です。」というアイデンティティーを持っていることは非常に重要です。

 今日は、この「私は神の子です。」と、私たちが確信を持って言うことが出来るために、神様が私たちに与えて下さった恵みについて、ガラテヤ3:29~4:7からメッセージを取り次ぐ。

【聖書個所】

ガラテヤ3:29~4:7:「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」

―祈り―

【序論】

 聖書は、

ガラテヤ3:29:「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」と言う。

 これは、「もしあなたがたは神の子ならば、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」と言っているのと同じこと。なぜなら、「キリストのものである」とは「キリストを信じる」ことであり、「キリストを信じる」ということは、「神のこどもである」ということ、同時に「アブラハムの子孫でもある」ということだからです。

ガラテヤ3:26:「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」

ガラテヤ3:7:「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」

 この二つの聖句から、「キリスト・イエスを信じる者は神の子どもであり、アブラハムの子孫である」ということが分かる。そうであるなら、ガラテヤ3:29から「約束による相続人なのだ」ということ。

 パウロはその「相続人」という言葉を受けて、ガラテヤ4:1から、今日のメッセージのテーマである「私は神の子です!」と、私たちが皆確信を持って言うことが出来るようにと、神様が私たちに与えて下さった恵みについて、その教えを展開している。そこには、いつものように3つある。

【本論】

(1)救いの恵み

V1~V2:「ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。」

 この世のことを考えてみても、確かに「相続人」というものは、その言葉の通り相続人として全財産の持ち主である。しかし、まだ「子どものうち」は相続権を持つ相続人ではあっても、ある年齢までは「後見人や管理者」が管理している。日本の場合、成人年齢に関する民法が2018年に改正され、2022年4月1日より、18歳になれば、法廷代理人抜きで遺産相続することが出来るようになった。

 パウロはこのような相続の問題に関連させ、私たちの救いに関して、神が御子イエス・キリストを通して、私たちに「救い」という「神の子」として相続、受けることが出来る恵みについて語っている。

V3~V5:「私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」

 「まだ小さかった時」というのは、Ⅴ1の「奴隷と少しも違わない子どものうち」ということで、救いを受ける前の、生まれながらの罪人のことで、「神の子」のことではない。また、「この世の幼稚な教えの下に奴隷となっている」とか、また「律法の下にある者」ということは、それと同じように、救われる前の状態のこと。「罪の奴隷になっている」、「罪の支配の下にいる者」ということです。救われる前までは私たちは皆罪人であり、罪の奴隷だからです。

 聖書は、そのような「罪の奴隷となっている私たち」を、また「罪の下にいる私たち」を、「救い出し、贖い出し、神の子とするために御子イエス・キリストを送って下さった」と言っている。「罪人としての身分から神の子としての身分に変えて下さった」という。それが、Ⅴ3~V5で言っていること。もう一度、Ⅴ3~V5を読んでみよう。

V3~V5:「私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」

V5:「…、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」

 聖書の中で、私たち「キリストにある者」、「キリストを信じる者」、また「クリスチャン」だけが、「神の子」、「God’s son」と呼ばれる。私たちも他の被造物と同じように、神によって造られた者だが、私たちだけが「神の子」、「God’s Son」、「息子、娘(son and daughter)」と呼ばれるのである。

※このことを覚えよう!

(2)父なる神との「子」(息子・娘)としての関係回復の恵み

V6:「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

 これは、父なる神に対する「子」(息子・娘)としての関係回復の恵みです。

引用:放蕩息子の譬え話(ルカ15:11~32)

 「我に返ったとき」(V17):今のみじめな自分の状況に気付き、底つき体験をした。目が覚めたのである。しかし、まだ関係が回復したわけではない。実際の関係回復は、彼が父の下に帰り、父から息子としての扱いを受けてからである。

V17~V24:「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子(this my son)は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」

 こうして彼は「子としの立場」を、「息子としての立場」を回復した。これは私たちと父なる神様との関係回復の例え話です。私もそのようにして救われ、回復した。

引用:私の救いの時に与えられた恵み。「天の父なる神様(アバ、父)」と呼ぶことが出来た恵み。御子の御霊が与えられた恵み。

(3)父なる神の財産相続の恵み

 それに比べて長男はどうだったか?―ずっと父の下にいながらも息子のように生きておらず、奴隷かしもべのように生きていた。そんな長男に対し、父は何と言ったか?

V31~V32:「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 自分を非難する兄に対し、怒ることも裁くこともなく、「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」と、放蕩して帰って来た弟に対し、惜しみなく一番良いものを与えたように、兄に対しても、「私の財産はおまえのものだ」と、一番良いものを上げると言ったのである。

 この放蕩息子とこの兄の父は、私たちの天の父なる神様を表わしている。決してご自分のみこころに適うような兄弟ではないが、その父がこれほどまでにこのような二人を受け入れ、愛し、すべてを与えて下さる方だとするならば、私たちの本当の父なる神様はどれほど豊かに天にある御自分の財産―「義、平安、喜び」(ローマ14:17)、癒し、解放、救い、永遠のいのち、まことのいのち、…良いもの―で祝福して下さらないことがあろうか!

マタイ7:9~11:「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の

子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

【結論】

 私たちは神の子です。唯一、父なる神様から、「私の子」、「My Son」と呼ばれる者です。この世には多くの「子ども」がいるが、私たちはもはや単なる「子ども」でもない。父なる神様と「父と子」の関係の中で、「神の子」とされた者です。

ヨハネ8:35:「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。」

 父と子の関係は、何があっても変わらない。その中で、私たちは神の子とされた。だから私たちは確信を持って、大胆に「私たちは神の子です。」と告白し、その信仰を持って歩んで行こう。

―祈り―


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