【前置】
先週はマタイ6:6から、実を結ぶ祈りの「祈りの力」について学んだ。今日はダニエル9章1節~19節より、実を結ぶ祈りとは何に基づく祈りなのかという「祈りの土台」について学ぶ。先ず開く聖書個所はダニエル9:3です。
【聖書個所】
ダニエル9:3:「そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。」
【序論】
「そこで」とは何のことか?―何があってダニエルは祈ったのか?―その答えはその前のV1~V2にある。
V1~V2:「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった【主】のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」
ダリヨスは、バビロンの最後の王ベルシャツァル王が、彼が開いた宴会の席上で見た文字の預言通りに殺され、バビロン帝国は滅び、ペルシャがバビロンの後を治めるようになった時の初めの王になった人物である。それはBC539年のこと。その時ダニエルは、この時から47年前のBC586年に起きたエルサレム神殿の破壊を預言していたエレミヤのことばにより、その回復、「エルサレムの荒廃が終わるまでの年数」が70年であることを知った。神殿再建の完成はBC515年なので、正に預言通り、神殿崩壊後70年であった。そのエレミヤの預言を記した文書がどのようにしてバビロンに持ち込まれていたのか分からないが、彼は文書によってそれを知った。それが「そこで」ということ。
彼はその文書を読み、神殿回復までの年数が崩壊から70年であることを知って、「知って」というより「悟って」、彼は神に祈ったのである。だからこの時の彼の祈りは、ただ「これが欲しい。あれが欲しい。こうして欲しい。ああして欲しい。」という個人的な祈りではなく、「主のことば」に基づく祈りだった。ここに今日のテーマの「実を結ぶ祈りの土台」のことが記されている。いつものように3つある。
【本論】
(1)(実を結ぶ祈りの土台は)「変わることのない、真実に満ちた神のみことば」である。
V2:「…、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった【主】のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った」
ダニエルは主のことばによってエルサレムの回復のことを悟り(本当に理解し)、それによって祈った。祈りにはみことばによる悟りが必要。そして、その悟りによる信仰が必要です。何故なら、祈りはただ根拠のない願望ではなく、みことばを悟り、その悟りによる信仰に基づくものだからです。
ヘブル11:1:「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
ダニエルはかつてエレミヤが神殿の回復について預言した言葉を、文書を通して知り、悟って祈った。エレミヤの語った預言とは、
エレミヤ29:10~11:「まことに、【主】はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』」
この時ダニエルはまだ神殿の回復を見ていないが、この後実際に24年後(ダリヨス王の元年:BC539年―再建工事完成の年:BC515年)に完成する姿を信仰によって見て、祈った。決して変わることのない真実なみことばを信じて祈ったのである。
※祈りにはこのように単なる願望ではなく、変わることのない真実な神の言葉に基づいて祈ることが必要。その祈りは必ず答えられる。何故なら、それは神のことばだから。
(2)(実を結ぶ祈りの土台は)「恵みと憐れみに満ちた神のみこころ」である。
V4:「私は、私の神、【主】に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。」
Ⅴ9:「あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。」
Ⅴ18:「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」
ダニエルは、この祈りが出来るのは、神は恵みを下さる方であり、あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものであり、「神の大いなるあわれみによるのです。」と、神の恵みと憐れみがあるからだと告白をしている。それらを土台にして祈っているのだと言っている。
※私たちもダニエルのように、「私たちは罪ある者、悪を行ない、神に逆らい、すぐに心を翻す、不従順な者だが、しかし、あなたは真実で、変わることのない神様、恵みと憐れみに富んでおられる神様です。」と、神の恵みと憐れみに頼んで祈ろう!―神は必ず応えてくださる。
(3)(実を結ぶ祈りの土台は)「公義と公正、つまり正義を行なわれる神の義」である。
V4:「私は、私の神、【主】に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。」
Ⅴ7a:「主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、…」
Ⅴ16:「主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。」
彼らは彼らの罪のためにバビロン捕囚に遭い、「私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっている。」、もう十分裁きを受けている。だから、「あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。」と祈っているのである。
イスラエルの民は罪を犯すとモーセの律法によって裁かれた。その裁きは義の裁き、公正な裁きです。しかし、私たちの場合はモーセの律法によるのではなく、直接、神の義による裁きを受ける。しかし、そこには神の恵みによる赦しもあるので、もし私たちが神の恵みに拠り頼むのならば、私たちがどんなに罪を犯す者であっても、神の恵みによる公正な罪の赦しと裁きにより、赦しは私たちに、裁きは私たちの主イエス様に向けられるという「神の義なる赦しと裁き」のみわざが行われるのです。
Ⅱコリント5:21:「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
私たちは公正な恵みの秤で量られているような者。信じる者には、目の前の秤の針は無限の義を指している。それは裏側のイエス様が載っている秤に、私たちの無限の罪が載っているからである。だから私たちは恵みに留まらなくてはならない。これは命令ではなく、恵みに預かった者の感謝の伴う特権です。
【結論】
結論として、聞かれる祈りの土台は、①神の変わらない主のみことばにある。②神の恵みと憐れみにある。③神の公義と公正、正義にあるということ。それをダニエルは最後に、Ⅴ17とV19で、「ご自身のために、御名のために」という言葉にまとめて祈っている。
V17:「私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。」
Ⅴ19:「主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行ってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名(エルサレム:神+平和、イスラエル:戦う+神)がつけられているからです。」
私たちもダニエルのように、①神の変わらない真実なみことばを、②神の恵みと憐れみを、③神の公義と公正を土台にして、確信を持って、希望を持って祈ろう!
特に今日はⅤ16にあるように、エルサレム、イスラエルの回復、平和のために祈ろう。もうイエス様への罪の裁きと、私たちへの恵みの血潮は、エルサレムのために、イスラエルのために十分に流されたのだから、神様が御怒りと憤りを収めてくださるように!
―祈り―
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