top of page

2023.10.15 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

マタイ6:6:

【タイトル】

「祈りの力」

【前置】

 イスラエルで戦いが起きたことはご存じの通り。今日もこの後イスラエルやウクライナ等、戦禍の中にある国のために、また統一協会のことや、その他の私たちのいろいろな課題のために祈る時間を持ちたいが、今日はそのことがあるからというわけでなく、私たちの信仰生活にとって欠かすことの出来ない、しかし、もしかするとその割には余り分かっていない、そして分からないために余り実行されていないかもしれない「祈り」ということについて、聖書から改めて見て行きたいと思う。そして実践して行きたいと思う。

 聖書個所はマタイ6:6です。

【聖書個所】

マタイ6:6:「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

【序論】

質問①:皆さんにとって、祈りとは何か?或いは、一般的な意味で、皆さんは「祈り」とは何だと思うか?

質問②:皆さんは一日にどのくらい祈っているか?祈りに費やす時間はどの位か?

 今日私は、今日のメッセージによって、私たちが今までよりももっと「祈り」について理解し、そしてもっと祈ることが出来るようになることを願っている。そして分かって、本当に自分のものにすることが出来るならば、皆さんの信仰生活、祈りの生活は、今より劇的に大きく変わると信じる。アーメン!

 そうなりたいか?では始めて行こう。しかし、30~40分の短いメッセージでは祈りのすべてを語ることは出来ないので、今日は、「祈りの持っている力」、「その力がもたらす効果、また結果」というところに焦点を当てて、メッセージを取り次ごうと思う。

 さて、今日開いたマタイ6:6は、祈りについてよく引用される聖書個所だが、ここに、「祈れば何かが起こる。祈れば何かが変わる」という「祈りのもたらす効果、また結果」が、見えるように分かりやすく語られている。どういうことかと言うと、「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」、「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」ということだからです。

※「そうすれば」という言葉が大事!その前後に2つのことが語られていた。前の方には「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」というように「祈り方」が書かれていた。後ろには「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」という「祈りの効果、結果」が記されていた。

 今日はこの二つのこと、「祈り方」と「祈りの効果、結果」つまり、「祈りの力」に注目したい。

【本論】

(1)祈り方:「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」

 ここに、「祈り」とは何かを教える、祈りを特徴付ける3つの鍵の言葉がある。

①「自分の奥まった部屋」:私は毎朝起きると自分の部屋に行って、戸を閉めて祈る。そうすれば誰にも邪魔されず、また誰をも邪魔にすることなく祈りに集中することが出来る。「自分の奥まった部屋」とはそのような場所のことだろう。ただ、これはそのような物理的な場所のことだけでなく、英語の詳訳聖書で「most private room」、「一番プライベートな部屋」となっているように、「誰にも入らせない、自分だけの秘密の部屋」のことでもある。その部屋に居れば、誰も見ていないので、本当の自分の姿のままで居ることの出来る部屋のこと。原語のギリシャ語では「タメイオン」となっていて、同じ意味の言葉。だからそのあとの「戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」の「隠れた所」、英語の聖書で「in secret place」、原語のギリシャ語では「クルプトス」、意味は「見えないところ」と言う意味で、「人間の心の奥底にある部分」と重なり合う。

②「隠れた所」:だから「自分の奥まった部屋」とは、自分の心の奥にある「本当の自分の心の場所」のことでもある。

※聖書は、その場所に入って、「戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」と言う。つまり、「本心で、飾ることなく、あなたの心の奥におられる父なる神様に祈りなさい。」というのです。

 前の5節に記されている偽善者の祈り、「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。」のように、「本心からではなく、人に見られたくて祈る、着飾った祈り」とは大きな違い。

 そしてもう一つ、「父なる神様」のことを「あなたの父」と呼んで、その「あなたの父に祈りなさい。」と言っていること。これも聖書が「祈り」とは何かについて教えている大切な点。

③「あなたの父」:「あなたの父に祈ること」、これは、祈りは「自分の奥まった部屋」で祈ることと同様に、極めて個人的なことだということを教えている。「ご在天の父なる神様」とか「天にまします父なる神様」とか言うように、何か他人事のように畏まって祈るのではなく、自分の親しい父に向って呼びかけるように祈りなさいというのである。

※これが聖書が教える祈りです。親密な関係の中で、どんなことでも飾ることなく、本心で祈る祈り。父なる神様に向かって、「アバ」、「ファーザー」、「私の天のお父様、おとうさん」と親しく呼びかけて祈る祈り。これが、聖書が教える祈りなのです。

 そうすれば、祈りの効果として、2つめに、「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言うのである。

(2)報いてくださる。:効果がある、結果があるということ。それはどういうことか!

詳訳聖書:マタイ6:6b:「そうすれば、人に知られないで見ておられるあなたのみ父が<あからさまに>あなたに報いてくださるのである。」

 英語の詳訳聖書では、この「あからさまに」を「in the open」としている。つまり、神様は、私たちが心の中から本心で、神様に親しく、「私の天のお父様、お父さん」と呼び掛けるように、そんな親しい関係の中で祈るなら、神様は「開けっぴろげに」、「明らかに分かるように」、「見える形で」応えて下さると言うのである。これが、この「祈りの効果であり、結果」、つまり「見える実」です。

※そして、「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とあるように、その実を結ばせてくれるのが神様だというのです。だから、祈りの力、祈りが持っている力というのは、私たちの力ではなく、神様の力です。

※私たちは、祈りによって実を見ることが出来るようにと、一生懸命頑張って、汗を流して、一生懸命断食して、あれをして、これをしてと、私たちは努力をして、祈りの結果、実を結ぶ者ではない。もちろん断食することは大切、祈ることは大切です。しかし、私たちが行なう祈りや断食が実を求めることだとしたら、それは祈りや断食ではない。それは肉の頑張り、努力にしか過ぎない。実や結果というものは、私たちの頑張りや努力を条件に得ることが出来るもの、結ぶことが出来るものではない。むしろ反対で、実を求める努力をしないこと、止めること、つまり肉の努力を捨てて、神に全面的に頼ること、これが断食であり、祈りです。

※なぜなら、「祈り」とは、神様との関係、神様とつながることだからです。つながれれば、私たちは何もしなくても、神様が結果を見せてくれるのです。そのことの良い実例が聖書にある。

引用:イエス様がペテロとヨハネとヤコブを連れて変貌山に上って下りて来た時のこと。残っていた他の弟子たちの所に、ある人が癒してもらおうと、癲癇で苦しんでいる自分の息子を連れて来たが、誰もその子を癒すことが出来なかった。そこでイエス様がその子から癲癇の病気の霊、悪霊を追い出されると、弟子たちがイエス様のところに来て、「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」と訊ねた。するとイエス様は彼らに答えられたが、その答えが、「祈り」とは、また「断食」とは何なのか、また、実を結ぶ祈り、結果を見ることが出来る祈りとは何なのかを教えている。

マタイ17:20~21:「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」

 「あなたがたの信仰が薄いからです。」とは「信仰がない」ということ。信仰と言うのは、関係だから、つながっているかつながっていないかという、どちらかの関係しかない。中間はない。だから信仰は「強いとか弱い」とか、「多いとか少ない」とか言うことではなく、「あるかないか」ということが重要なのです。そして、もしあるなら、聖書がいうように、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」ということです。ハレルヤ!これは、ヨハネ15:5:「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」という信仰の原理原則と同じである。

【結論】

 このように、「祈り」というのは神様との関係であって、それも極めて個人的なもので、神様と自分、自分と神様という、奥まった部屋の、隠れたところの自分の心の深い所での関係、それだけ深く親しい関係のこと。だから、そのように祈るのなら、神様はオープンに結果を見せてくれるのです。ハレルヤ!

※皆さん、祈って、その実を見ていますか?神様から明らかに、見える形で、その結果を、その効果を見せてもらっているか?―是非、見せてもらおう!祈れば必ず答えられると、その結果を見せてもらおう!

―祈り―


最新記事

すべて表示

2024.11. 3 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 創世記14:18~23 ​ 【タイトル】 「完全な十分の一のささげもの」 ​ 【聖書個所】 創世記14:18~23 :「さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブ...

2024.10.27 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】 黙示録(18)「ラッパの裁き①ー聖徒たちの祈りと神の裁きー」 ​ 【聖書個所】 黙示録8:1~13 :「小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。また、もうひと...

2024.10.20 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 黙示録7:1~17 ​ 【タイトル】 黙示録(17)「患難期の信仰者の喜びは天の御国の喜び」 ​ 【聖書個所】 黙示録7:1~17 :「この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにして...

Comments


bottom of page