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2023.1.22 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【前置】

 今日からまた、コロサイ書の講解説教に入る。今日からの3章からは、これまでの1章と2章での教理的な教えを受けて、具体的に言うならば、直近の「キリスト信仰とは何か?」という、キリスト信仰に関する教理的な事柄を受けて、いかにクリスチャンとして歩んで行ったらよいかというクリスチャン生活の実践面について語られているところである。今まで何度か触れたが、パウロの書簡というのは、特に獄中書簡と言われているエペソ書、ピリピ書、そしてこのコロサイ書、また獄中書簡ではないが、ローマ書などは、前半が教理的な部分、後半が実践的な事柄という風になっている。今日も先ずそのことを覚え、今日のメッセージに入って行きたい。


【本論】

V1:「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。


 「こういうわけで」とは、これまでの1章、2章の教理面を受けて、パウロはここで、クリスチャン生活の実践面について語り始めている。先ずその出発点となっているのが、「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら」という前提条件である。そして、これはこれまで語られて来た「キリスト信仰とは何か」ということから来るものである。


ローマ6:4:「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。


ローマ6:8:「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。


 V4の「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」も、V8の「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる。」も、そのどちらも、私たちのキリスト信仰のゆえに、私たちは皆ひとりひとり、キリストとともに死んで、キリストと共によみがえり、キリストとともに生きる者になった」ということを表している。これが私たちのキリスト信仰、その信仰の結果としてもたらされる霊的事実です。


 だからパウロは、「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら」(V1)と言ったのです。


※その事実が前提となって、パウロは「上にあるものを求めなさい。」と言っている。これが今日のメッセージのポイント、今日のテーマの「クリスチャン生活の肝、要」です。


 では、「上」とは何だろう?―それは「そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」(V1)とあるように、キリストの支配しているところ、神の支配しているところ、つまり、天の御国、神の国のことです。だから、V2:「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と言うのです。


 しかし、ここで誤解してはならないのは、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と言うのは、しばしば私たちが耳にし、また目にすること―私たちは皆罪赦されて天国に行くことが出来るのだから、今どんなに大変でも、病気の苦しみ、経済の苦しみ、人間関係の苦しみ、生きることに苦難があっても、それは我慢しよう。忍耐しよう。いずれ天国に行けば、それらのものは無くなってしまうのだから」と、ただ今の生活の中で忍耐と我慢を強いられる、或いは自ら強いることではない。勿論クリスチャン生活にはそういう面もある。しかし、この箇所で言っている「上にあるものを求めなさい。」、「天にあるものを思いなさい。」ということは、そういうことではないのである。なぜならば、V3:「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」と言うからです。

◎これは何を言っているのだろう?―これは初めに言った私たちのキリスト信仰のことを言っている。もう一度、ローマ6:4と8を見てみよう。


ローマ6:4:「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。


ローマ6:8:「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。


 ここにははっきりと、キリストを信じる者は、キリストとともに死んだこと、死んで葬られたことが記されている。そして次にキリストを信じる者は、よみがえること、よみがえって新しく生きること、よみがえってキリストとともに生きることが記されている。


※これがキリスト信仰と、キリストを信じる信仰の結果としての霊的事実である。


※そう!―私たちはキリストと共に死んで墓に葬られ、そしてよみがえったのです。―皆さん、どうですか?―そのように生きているだろうか?


 このことは、私たちは信仰の結果受ける洗礼によく示されている。洗礼槽の中で水に浸(つ)かり、そして洗礼槽から出て来るという姿である。それが、V3:「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」ということなのである。


 私たちの罪人としての古い人は死んで、今私たちはよみがえってキリストとともに、「神のうちに隠されている」のです。この「隠されている」というのは、よみがえって生きているわたしたちのいのちは見えないけれども、ちょうどあの洗礼式の時のように、私たちはキリストを信じる時、あの洗礼槽を示すキリスト、神の中に入ってしまって見えない状態になってしまっているけれども、でもその中でどこかに行ってしまったわけではなく、その中に居て、そしてその中、墓、洗礼槽から現われて、そしてキリストと共に生きて行くということです。それが、V3:「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」ということであり、V4:「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」ということなのです。


 「私たちのいのちであるキリストが現れると」とは、どこから現われることなのか?それは、洗礼槽から、墓からです。だからその時、「そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」と言うのです。


※クリスチャンはキリストとともに栄光の内に生きて行く。そのように生きて行くとき、キリストは私たちを通して現われ、人々は私たちのうちにキリストの姿を見るのです。これがクリスチャンとしての証し、キリストの証人としてのクリスチャン生活です。


※だから「上にあるものを求めるよう。」、この世の生き方、見方、考え方、この地上の見方、生き方、考え方で生きるのではなく、上にあるもの、神の国を思って、神の国を第一にして生きて行こう。これがクリスチャン生活の要です。もし私たちがこの世の人たちと同じような考え方、見方、生き方、「今日どうやって生きて行こうか?あれも欲しい。これも必要だ。あれがない。これがない。」と言って思い煩って生きていたら、私たちのうちからキリストの栄光、キリストの姿は現れない。御国は現れない。私たちには、確かにこの世で生きて行くためにはいろいろな必要がある。しかしどんな必要があるにしても、神の国も求めて、神の国を第一にして生きて行けば、あなたの必要は満たされるからです。


マタイ6:33:「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


※だから、この一年もそのようにして、「上にあるものを求めよう。」、神の国を第一にして生きて行こう。


 また、古いものに縛られない生き方をして行こう。過去に縛られない生き方をして行こう。新年に入って2週間が過ぎたが、この2週間のうちに、もう既に「あんなことをしなければよかった。こうすればよかった。」というような後悔やサタンが責めるような失敗や罪を犯したかもしれない。また、「『去年は散々だった。今年こそこんな年でありたい。こんな年にしたい。』と思っていたのに。」と思うようなことがあるかもしれない。またこれからもあるだろう。しかし、私たちは「上にあるものを求めて」歩いて行かなければならない。前を向いて歩いていかなければならないのです。勿論、反省すべきことは反省し、失敗は失敗として認め、罪は罪として認め、そして明確に方向転換、悔い改めて、「上のものを求めて」、「天にあるものを思って」、神の愛と赦しと救いの中を、自由と解放と喜びの中を歩んで行こう。たとえサタンが、また自分自身がどんなに責めても、後悔してもである。何故なら、私たちのすべての罪の債務証書は、キリストによって無効にされているからです。(コロサイ2:14)だから、そのようなものに縛られることはない。ただ、私たちのために用意されているゴール目指して歩んで行こう。進んで行こう。

 

 マラソンは人によるが、最低でも4万歩以上走ると言う。私の場合は歩幅が約70cmなので、60,278歩。しかしどんなに時間が掛かっても、一歩一歩前に進めば、いつかは必ずゴールに達するのである。クリスチャン生活は天国に入るまで、ただ何もせず、我慢するだけのではない。それは神様が求めているクリスチャン生活ではない。神様は私たちに、上のものと求めて、前に向かって歩んで欲しい、走って欲しいと願っているのである。パウロはこう言っている。


ピリピ3:12~15:「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。


【結論】

 神は私たちをキリストと共に歩み、「上にあるもの」、神を第一にして歩むように、ゴール目指して真っすぐに歩む者として召して下さった。だから私もこの一年、そのように歩んで行きたい。一緒にそのように、上にあるものを求め、ゴール目指して歩んで行こう。走って行こう。


―祈り―

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