【導入】
今年も昨年に続いて「キリストに根差して生きる」を基本テーマとして行くが、今年は少し先に進めて、「さらに高み(高い所)目指して歩もう!」をメインのテーマとして行きたい。今日はそのためのみことばを取り次ぐ。題して「さらに高みを目指して!」。聖書個所は、前回のエペソ3:14~19の一番最後のみことばV19と、ピリピ2:1~9です。
【序論】
エペソ3:19:「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
先週のメッセージの結論は、「神の知恵と力と愛を知ることによって、神の満ち満ちたさまにまで満たされて行こう」であった。そして、それが私たちのキリストに在って目指す「高み、目標」だと言った。今日はそのテーマを更に進めて、では具体的にどうすればその高み―キリストの満ち満ちた姿―まで到達することが出来るかということについて、みことばから分かち合いたい。
皆さんは、そのような高みを目指して行きたいか?―そのようにキリストの満ち満ちた姿にまで変えられて行きたいと願うか?―「満ち満ちた」というのは、「あの金太郎飴のように、どこを切っても金太郎の顔が出て来る」というようなもの。つまり、「限りなくキリストの性質、キリストのものの見方、考え方に近づいている」ということである。そこで今日は、そのことを具体的に、分かりやすくするために、ピリピ2:6~9の箇所を読んで、メッセージを進めて行きたい。そこに、キリストの性質、姿が明確に描かれているからです。
【本論】
ピリピ2:6~9:「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
先ずここに、キリストの性質、姿、それも、その性質に満ち満ちたご自身の姿がどういうものであったかが示されている。それも、私たちが目指している、キリストに根差して、さらに高みに到達したときの姿が描かれている。それはどういう姿であったか?―それは、遜り(謙卑)と従順の姿であった。どのような遜り、従順だったか?
V6~V7:「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」
「ご自分を無にして」ということは、「自分が無くなってしまう」ということではなく、「自分、自分という自分中心の考え方、生き方を捨てる」ということ。またそれは、V8:「自分を卑しくし」ということ。これは、所謂「卑しい人間=貪欲で自分のことしか考えないような人間になる」ということではなくて、「自分を低くする」ということである。
※ここに重要な霊的原則がある。霊的には、私たちは、低くなればなるほど、高くなるのです。高みに至るのです。だから、神はキリストを高く上げられたのです。キリストは自分で上がろうとしたのではない。
V9:「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
イエス様は、十字架に架かろうとエルサレムに向けて旅をしているその時に、弟子のヤコブとヨハネの母がやって来て、イエス様がやがて回復される神の国が出来た時に、自分の二人の息子をイエス様の右と左に置いて欲しいと願い出た。そして、それを知って他の10人の弟子たちが腹を立てて怒った時に、彼らにこう言った。
マルコ10:42~43:「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。』」
またペテロも、彼がローマで殉教する前に、ローマから小アジアのクリスチャンたちに送った手紙の中でも、こう言っている。
Ⅰペテロ5:5~6:「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
どちらも、先ほどの重要な霊的原則、「自ら高い者、高くしようとする者は低くされ、自ら低くする者が高くされる。」という原則です。
※この霊的原則によって生きる時、私たちは高くされる。高みに立つことが出来る。自分で高い所に立とうとすれば、却って低くされる、というのが聖書的原則なのである。
大阪西成の「メダデ教会」の動画を見る。西田好子牧師とその信徒たちの姿。「アベ・マサミチ」さん(本「愛をばらまけ」では、仮称「ゴトウ」さん)の変化を見て欲しい。かつてやくざの世界で「てっぺんに立とう」とした人間が、今では人の世話になりながら、遜って低くなっている。
※これが、キリストに根差し、神の知恵と力、そして神の愛を知った者が、さらに高み=高い所、キリストの満ち満ちた姿に至る秘訣なのです。
この世の中の考え方、見方、生き方は、「自分、自分」である。また「高み」を目指そうと、一生懸命そこに向かって努力する。それはそれで悪いことではないが、聖書は、「低くなれ、そうすれば高くされる」と教える。また、「自分、自分ではなく、人のことを考えなさい。」とも教える。
ピリピ2:3~5:「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
※これが、さらに「高み」=「キリストの満ち満ちた姿」に至るための道である。
またイエス様は、それを「弟子の道」としても教えた。
マタイ16:24~25:「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。』」
【結論】
私たちは今年、この高みを目指して行く。キリストの満ち満ちた姿になることが出来るように、コロサイ書で言うならば、「キリストにある成人として立つことが出来るように」を目指して行く。なので、遜って行こう。低くなって行こう。自分、自分ではなく、他の人のことも顧みながら歩んで行こう。
最後に、今日のみことばをもう一度読む。
エペソ3:19:「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
ピリピ2:6~9:「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
―祈り―
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