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2022. 9. 4 主日メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

 コロサイ2:1~5


【タイトル】

 コロサイ書(9)「パウロの苦闘と喜びーそれはキリストのもの、私たちのものー」


【導入・序論】

 メッセージ本文に入る前に、今日の聖書箇所と関連があるので、聖書のみことばを読むことに関して少し分かち合いたい。今回もそうだが、メッセージを準備するとき、いつもではないが、その聖書箇所から何を語ることが出来るだろうか、その箇所で神は何を語ろうとしているのだろうかと、しばしばそれを掴むまで苦闘するときがある。皆さんはどうだろうか?―メッセージの準備のためでなくとも、皆さんも聖書を読んでいるとき、「この聖書箇所は何を言おうとしているかよく分からない?」と思うことがあるのではないだろうか。―そんなときのための参考になればと思うので、私はどうしているかを分かち合いたいと思う。


 それは聖書に限らず、単純なことだが、何度も繰り返し読むことです。何故なら、どんな本でも著者が居て、その人がある思いを持って書いているのだから、余程でなければ必ず分かるということです。そして聖書の場合、読むというよりも、恰もそこに、このコロサイ書の場合はパウロがこの書簡を書いているので、パウロが私の前に居て語っているかのように、それも唾が掛かる位、直ぐ目の前にいて語っているかのようにして聞くとき、聖書の言葉が、ただ言葉や文字として目や耳から入って来るだけではなく、パウロの息遣いと共に入って来る。息吹として伝わって来るということです。そういう意味で、2年前に88歳で天に召されたモーリス・セルーロというメッセンジャーは、聖書のみことばを「神の鼓動」=「God’s Heartbeat(心臓の拍動)」と言った。余りにも近くにいるので、神様の心臓の鼓動が聞こえるかのようにして聞こえて来るということでしょう。神様の語ろうとすることが、神様の息吹、鼓動、たぎる思いと共に伝わって来るということです。ヨブ記では、そのような神のたぎる思いを次のように言っている。その箇所は、私のメッセンジャーとして、いつも心に掛けているところ。


ヨブ32:18~19:「私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。32:19 今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。


 だから、私はこのようになるまで何度も何度も読む。まだ発酵前の新しいままのぶどう酒を何度も飲み、やがてそれが私の腹の中で発酵して張り裂けるようになるまでみことばを読む。そして語るということを心掛けている。神の言葉が口から溢れ出て来るように、それまで何度も何度も読んで待つということです。


 旧統一教会では、文鮮明が未だ生きている時、日本から沢山の信者が韓国に行って、文鮮明の語る説教を聞く機会があった。そんな時、彼らはこう言われたそうだ。「お父様の語る時は一番前に行きなさい。出来るだけ前に行ってお父様の唾が掛かれば、それだけ祝福されるから。」と。彼らは文鮮明の唾を被っただけではなく、間違ったぶどう酒、教えを飲んでしまった。それが旧統一教会の問題です。だから、誰の話を聞くか、どんな本を読むかということは大切なことです。そこで、今日のメッセージとの関連が出て来たので、ここから今日のメッセージの本文に入る。


【本論】

Ⅴ1:「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。


 ラオデキヤというのは、コロサイの町から約10kmほど北西にある町で、前にも言ったように、コロサイの町同様、「そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも」とあるように、パウロの行ったことのない町で、コロサイの教会がエパフラスによって開拓されたように、彼によって開拓された教会があった町と言われている。パウロは、その町の人たちも含め、まだ「直接私の顔を見たことのない人たち」と呼ばれているその地域のクリスチャンに向け、「私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。」と言っている。その苦闘とは、前回学んだ、キリストのからだである教会の開拓、教会の建て上げのための苦闘です。


コロサイ1:24:「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。


 パウロは、その教会の開拓、教会の形成の苦闘を、「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」と言った。そのことについては前回語っているので、ここでは省くが、福音宣教、教会開拓、教会形成には、身を削るような苦しい戦いがあるということです。その苦闘をパウロは、未だ会ったことはない、しかし、キリストのからだとして、そのただ中にいるコロサイの教会の人々、ラオデキヤの人たち、その他の人たちに、「私の苦闘を知って欲しい」と言っている。それは、苦労話を聞いて同情して欲しいとか、憐れんで欲しいとかではなく、むしろそれにより、教会がますます健全に建て上げられて行くためのことなのだ、と言っているのです。


Ⅴ2:「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。


※そうです!ここに、苦闘してでも行わなければならない福音宣教、教会開拓、教会形成の目的、ゴールがある。そしてそれは、前回も言ったが、私の牧会の目的、ゴールでもあり、また、私たち教会の存在目的でもある。


コロサイ1:28~29:「私たちは、このキリスト(長い間多くの人々に隠されていた奥義であり、栄光の望みであるキリスト)を宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。


 コロサイ書同様、パウロがローマ幽閉中に書いたエペソ書の教会形成に関するみことばと同じである。エペソ4:13を見てみよう。


エペソ4:13:「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。


※だから、私たちはこのことをよく理解し、このこと(キリストにある成人として立つことが出来ること、キリストの満ち満ちた身丈にまで達することが出来ること)を目指して、互いに励まし合って行こう!


 次にまたパウロはここで、そのゴール達成のために、初めに旧統一協会のことが出たが、注意をしなければならないこと、教会に対する警告を語っている。それが、Ⅴ3~Ⅴ4です。


Ⅴ3~Ⅴ4:「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。 2:4 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。


 1世紀当時のパウロが伝道していたローマや小アジア、ギリシャの世界では、二元論を主体とするギリシャ思想やグノーシス主義、またユダヤ人の律法主義、その他、古くから地域に根ざしていたり、ペルシャやバビロンの宗教の影響を受けた偶像礼拝や神秘的な宗教など、私たちを罪と死の束縛から救うために、神が人となって来られたイエス・キリストを信じる信仰を妨げる力が働いていた。


 二元論と言うのは、霊と肉、霊と物質を分け、霊は善で神秘的なもの、肉や物質は悪で堕落したもの。そこで、人間は肉であり物質なので、善である神が人間になることはありえず、なのでキリストの神性を信じることが出来なかった。キリストを信じても人としてのキリストではなく、化現(けげん)としてのキリストであるとした化現論(ドキティズム)だった。或いは、グノーシスという特別な霊知を人しか救われないという教えであった。今日の主なキリスト教の異端である旧統一教会もエホバの証人も、また、モルモン教も、彼らが異端であることの特徴は、救済論(恵みと信仰による救い)の違いとキリストの神性を認めるかどうかの違いである。異端は共通して、それらについて、私たちの信仰基準とは異なるのです。


 このようにして、当時も、教えはまことしやかだが、決して救いに結びつくことのない教えが蔓延っていて、それが教会にも影響を与えていた。なので、パウロはそのことをこのように言って警告したのである。


 最後に、しかしそのように滅びに至らせる教えは蔓延ってはいても、コロサイの教会やラオデキヤの教会、またその他の人たちは、しっかりとキリスト・イエスに対する信仰を持っていることを見て、パウロは喜んでいると言っている。


Ⅴ5:「私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。


※ここに、パウロの喜びを見ることが出来る。そしてそれは同時に、キリストご自身の喜びであることも、私たちは聖書から見ることができるのです。


ヘブル12:2b:「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。


 イエス様は、ご自分の御体を十字架に付けることによって私たちの贖いをなし、そして、復活によってご自分の御体(みからだ)である教会を建て上げられたのです。イエス様は十字架に付けられるとき、その栄光に満ちた御体が建て上げられることをはっきりと見られたので、喜びをもって、辱(はずかし)めをものともせず、十字架に付けられた。そして、父なる神の御座の右であるその栄光の御座に着かれたのです。


※だからイエス様にとっても、福音宣教、教会開拓、教会の形成は苦難を通ることではあったが、しかし、それは喜びでもあったのです。


【結論】

 それは私たちにとっても同様です。パウロにとって、福音宣教、教会開拓、教会形成というものは苦闘であったが、そこにはキリストの体、奥義であるキリストの体、栄光の教会が建て上げられるという望みがあり、そして、それが実際に建て上がって行くのを見て、それが彼の喜びとなったように、私たちも福音宣教、教会開拓、教会形成には苦労は多いが、しかし、私たちも今、多くの世代にわたって隠されていた奥義である栄光の教会が、このように建て上げられているのを見ることが出来るので、それゆえに私たちは喜ぶことが出来るのです。ハレルヤ!―この喜びは私たちのものであるが、何よりも奥義であるキリストご自身の、栄光に富んだ喜びなのです。ハレルヤ!


―祈り―

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