【聖書個所】
マタイ24:32~44
【タイトル】
「主に会う用意は出来ていますか?」
【前置】
今日は通常のメッセージスケジュールに依るなら、ヨシュア記の続きの箇所だが、先週送られて来た3つのショートビデオを見て、一つだけなら何でもなかったかもしれないが、3つとも同じテーマだったので、これは無視できないと思い、予定外だったが、今日はその送られて来たビデオのテーマでみことばを取り次ごうと思う。そのテーマは、主の再臨についてです。再臨についてのメッセージは、私たちにとってカンフル剤のようなもの。普段は頭に浮かばずに忘れかけているが、大切なこととして思い出させてくれるものである。
では早速、みことばを開いて行こう。再臨についてはマタイの福音書24章~25章、マルコの福音書13章、ルカの福音書21章の中にあるが、今日はその中のマタイ24:32~44からである。
【序論】
皆さんは、主の再臨を信じていますか?―主は再び必ず来られます。アーメン!―使徒信条でも私たちはそのように告白している。「(主は)かしこより来たりて、生けるものと死にたるものとを裁き給わん。」と。
では、「いつ、どのように」来るのだろう?―それは誰にも分からない。聖書は次のように言っている。
Ⅴ36:「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」
だから、誰かが、「主は何年何月何日何時に来ますよ。」という人がいたら、注意をしなければならないと聖書は警告している。この24章の初めの箇所で弟子たちがイエス様に、「世の終わりはいつですか?」と訊かれた時、イエス様も弟子たちにそのような警告を与えた。
Ⅴ3~Ⅴ6:「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『人に惑わされないように気をつけなさい。24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。』」
終わりの時、主の再臨の時は必ず来るが、それがいつなのかは誰も分からない。だから、「わたしの名を名のる者が現れて、『私こそキリストだ。』と言っても惑わされるな。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くだろうけれども、気をつけて、あわてないようにしなさい。それらのことは必ず起こる。しかし、それで終わりが来たのではないから、あわてるな。騙されてはいけない。気を付けなさい。」と警告されている。
しかし、一方で忘れてはならないのは、主は再び必ず来られるということです。だから今日はそのことについて、3つの大切なメッセージを語る。
【本論】
(1)しるしを見て時を知りなさい。つまり、「イエス様は再び来られるが、その時のしるしを見て準備をしなさい。」ということ。
初めに言ったことと矛盾すると思われるかもしれないが、誰かが何かを言っているという「人の言葉」ではなく、「自分の目で、再臨の時、或いは再臨が近いという『時のしるし』を自分の目で見て、その時を知りなさいということなのである。
Ⅴ32~Ⅴ34:「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」
引用ビデオ:「赤い雌牛」がイスラエルに到着したというニュースビデオ。
この「赤い雌牛」(赤茶色の毛の雌牛)は、ユダヤ人たちが彼らの国の再建と共に完成する第3神殿の奉献には欠かせない動物である。傷もしみも何もない完全な赤い雌牛を全焼の生贄として屠り、その血を神殿に振りかけて聖めて神にささげることは民数記19:1~10に記されている。それを彼らは探していたが、ようやくそれが見つかったのである。
イスラエルの歴史は預言成就のタイムテーブルであり、イスラエルに起きることは預言成就だと言われる。イエス様はこのしるしのことを言われたのです。神殿で着る祭司の衣や神殿で使われるあらゆる器具はもうすべて作られて用意されていて。後は赤い雌牛だけだったが、それがようやく揃った。あとは神殿を建てるだけが、しかし、これは容易ではない。イスラム教の黄金ドームが建っているので、イスラム諸国との確執があるからである。しかし、その問題も患難期に入る時に現れる反キリストによって見かけ上解決する。平和契約が結ばれるからである。そのことがダニエル9:26~27にある。
ダニエル9:26~27:「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
赤い雌牛の準備は主の再臨の時が近づいているしるしなのである。だから次に求められているのは;
(2)(そのときがいつであるのか誰も分からないのだから)目を覚ましていなさい。用心していなさい。
Ⅴ36~Ⅴ44:「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」
私の部屋にはワイヤレス・チャイムが置かれている。その理由は、訪問者が門のインターフォンを鳴らした時の音が聞こえるようにしておくため。イエス様の再臨もそのようになればいいのだが、しかし、Ⅴ36:「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。」だからです。また、Ⅴ42:「あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」また、Ⅴ44:「人の子は、思いがけない時に来るのですから。」とあるように、そうはならないのである。
このように、主の再臨の時はミクロレベルでは予測はつかないが、マクロレベルでは大きく3つのレベルで予測されている。患難期前再臨説、患難期中再臨説、患難期後再臨説という神学的予測のことです。このことに関し、私は以前は「患難期前再臨説」だったが、今は「患難期後再臨説」です。その理由は、Ⅴ29~Ⅴ31を読むと、明らかに主の再臨は患難期後再臨であることが分かる。
Ⅴ29~Ⅴ31:「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」
また、「患難期前再臨=患難期前携挙節」の人たちが引用するⅠテサロニケ4:16~17の「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」の「会う」という言葉だが、これは原語のギリシャ語では「アパントー」で、意味としては、「迎えに行く。出迎える。会う」という意味なので携挙される目的は、「再臨されたイエス様を地上に私たちが迎えに行くためである」というふうに理解することが自然であり、そして、その後千年王国を一緒に過ごし、そして、新天新地を迎える時に、ともに聖なる都に入って住むことになると考えるのが正しいのではないかと思うからです。
※しかし、大事なポイントは時期論争ではなく、再臨は確かにあること、そして、その日その時のことは誰も分からないのだから、それよりも、皆が用心しながらその日を待つことが大切だということです。次に大切なことは;
(3)与えられた救いの恵みの中で、忠実に主に仕えること。主のみことばに生きること
Ⅴ45~51:「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。24:47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。24:48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、24:49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、24:50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。24:51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
この「そこ」とは何処のことだろう?同じようなことが語られているマタイ7:23や、マタイ8:12、黙示録21:2を見てみると、「そこ」とは、「イエス様から遠く離れているところ」、「外の暗やみ」、「都の門の外」ということで、救われた後のイエス様との関係性から見るならば、次のみことばのように、救われてはいても、御心に忠実に歩んだかどうかという点で、「報い=イエス様との親しい関係」に相応しくない者が置かれる所というふうに理解出来るのではないかと思う。
※これはクリスチャンとして、重要な課題ではないだろうか。
マタイ7:21~24:「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」
【結論】
まとめとして、主は再び来られることは確かなこと。だからと言って、いつ来られるかは分からない。しかし、しるしがあるかどうかとの関係では、その日は近い。だから、私たちはいつ来られても良いように、いつも主に忠実に仕えていたいものである。みことばに従って生きて行きたいものである。これが、主の再臨に備えての、私たちの信仰生活の在り方です。
―祈り―
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