【聖書個所】
ルカ1:26~38
【タイトル】
「神にはどんなことでも出来るーあなたは変えられるー」
【導入】 先日、高橋治之という元電通の専務で、昨年の東京オリ・パラリンピックの組織委員会の理事だった人が汚職容疑で捕まった。電通というのは日本で最大手の広告代理店だが、その電通と並び、博報堂という業界2位の大手広告代理店がある。その博報堂が1992年から2年毎、日本人のライフスタイルの調査を行っているが、その調査項目の中の「生活の中に刺激や変化が欲しいか?」というアンケートに対し、毎回20%近くの人が、「イエス」と答えているそうです。一方で、「今の世の中は変化が多すぎる。」と感じている人も毎回50%近くいて、相反する結果は出ているが、人はある程度、変化や刺激を求めているということが分かる。
皆さんはどうか?今のままで良いと思っているか?それとも、何か変化が欲しい、出来ることなら変わりたい、変えられたいと願っているか?―私は、勿論このままで良いと思う部分はあるが、もっと変わりたい、変えられたいと思う部分がある。
今日はこのように、「私は変えられたい。私は変わりたい」と願う人にとって最適のメッセージになるだろう。
【本論】
今日の箇所には、祭司ザカリヤとその妻エリサベツ、そしてエリサベツの親類のマリヤの3人が登場する。そしてこの3人に、初めに引用したアンケート結果がそのまま反映されているのを見ることが出来る。どういうことか?
ザカリヤとエリサベツは変化を求める人たちだった。何故なら、彼らは結婚してはいたが、ずっと子供が出来なかったので、「子供が欲しい。子供が欲しい。」と願っていたからです。それはどこで分かるか?
Ⅴ13:「御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。』」
「あなたの願いが聞かれたのです。」とあるように、ザカリヤは、またザカリヤだけではなく妻のエリサベツもずーっとそのことを願っていた。特に女性であり妻であるエリサベツにとっては、子供がいるかいないかは社会的死活問題だった。当時のユダヤの社会では、妻になった女性に子供が生まれなければ、人々から蔑まれたからです。だからエリサベツは、自分に子供がいないことをどんなに悲しみ、また恥ずかしく思っていたことだろう。だからその分、彼女はきっと子供がいないという恥を取り除いて欲しいと願っていたに違いない。だから子供が出来て5か月目、彼女はこう言った。
Ⅴ25:「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」
※このように、ザカリヤとエリサベツは変化を求める人だった。
では次に、誰が「変化を求めない、このままでよい。」と考える人だったか?―それは、ヨセフのいいなずけであり、イエス様の母になったマリヤです。次の言葉に注目。
Ⅴ34:「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』」
マリヤは御使いに、生物学的にどうすれば男と女の間に子供が出来るかということを教えようとしたわけではない。彼女は、「そんなことがあったら困る。そんなことはとんでもないことだ。」と、これから自分の身に起こる変化、だんだん大きくなって行く自分のお腹を想像しながら、「うわー、どうしよう。」と、そこまで思ったかどうかは分からないが、いずれにしても、彼女は「そんなことはとんでもない。」「そんな変化は受け入れられない。」と考えたのです。彼女は、変わることを恐れていたのです。
しかし、最後はどうなっただろう?―マリヤも変わることを受け入れたのです。
Ⅴ38:「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」
何がマリヤを、またザカリヤやエリサベツを変えたのだろうか?―
(1)「神にはどんなことでも出来る。」と信じること
Ⅴ37:「神にとって不可能なことは一つもありません。」
ザカリヤは自分の身をもってそれを経験した。みことばを体験した。ザカリヤやエリサベツにとって、自分たちに子供が与えられること、自分たちにそのようは変化が起きることは願ってもないことだった。何故なら、それを求めていたからです。なので、御使いを通して彼らに語られたことは大歓迎だった。しかし、実際にはもう年をとっていて、子供が出来るということは考え難かったので、それが真実かどうか、どうすればそれが分かるのだろうかと、彼は御使いに尋ねたのです。
Ⅴ18~Ⅴ20:「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』1:19 御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』」
果たして、その通りのことが起きた。
Ⅴ22:「やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。」
御使いの言った通りに、おしになってものが言えなくなった。「ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。」がその通りになった。御使いの言葉通りのことが彼の身に起きたのです。みことばを体験したのです。
また、マリヤも自分の身をもってそれを体験した。みことばを体験して信じたのである。
Ⅴ35~Ⅴ38:「御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。』1:38 マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」
※あなたもこのことを信じれば、変えられる!あなたにどんな願い、求め、飢え渇きがあっても、あなたも、「神にとって不可能なことはひとつもない。」ことを信じれば、必ず変えられるのです。
(2)飢え渇いて願い求めること。
このことはもうザカリヤとエリサベツの例で見た。聖書には、他にも同様の例が沢山ある。飢え渇きによる神体験、みことばが実現することなど、変わり、変えられることが沢山ある。例えば;中風の男の癒し(マタイ9:1~8、マルコ2:1~12、ルカ5:17~26)、長血の女の飢え渇き(マタイ9:20~22、マルコ5:25~34、ルカ8:43~48)、カナンの女の娘の癒し(マタイ15:22~28、マルコ7:25~30)、盲目バルテマイの癒し(マルコ10:46~52)など枚挙にいとまがないが、皆イエス様のところに、飢え渇いて来た。癒されること、変えられることを求めて来たのである。このことを覚よう!そうすれば、変えられるのです!
(3)恐れないで、神を信じて、一切神に委ねて、従うこと
Ⅴ13:「御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。』」
変化を恐れるだろうことを知って、マリヤにも主は同じように語られた。
Ⅴ30~Ⅴ33:「すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』」
そしてマリヤは、実際にエリサベツに起きた神のみことばの真実を見て、神には本当に不可能なことは一つもないという神体験をし、そして、こう言った。
Ⅴ38:「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」
引用例話:私の、トロントブレッシングでの同じようなみことば体験による生活の変化について。
【結論】
さあ、皆さんはどうだろう。今飢え渇いている人はいるか?変わりたい、変えられたい、こうしてほしい、こうなれば良いと願っている人、思っている人はいるか?ならば、神を信じよう。そして、求めよう。そして、委ねよう!勿論、御心に適うことでなければだめだが。長血の女のように、中風の男のように、カナンの女のように、盲目に生まれついたバルトロマイのように、飢え渇いて、神にはどんなことでも出来ると、神の下に行こう。
―祈り―
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