【聖書個所】
ヨシュア13:1
【タイトル】
ヨシュア記(21)「残された占領すべき地③ー相続の地ー」
【導入】
今日はこの箇所から前回に引き続き、ヨシュアに対して語られた「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地が残っている。」と言われたその「占領すべき地」とは何なのかについてみことばを取り次ぐ。前回のメッセージでは、それは私たちにとっては、「完全なる安息、完全なる平安、救いの完成」であるということを語った。
今日はその「救いの完成」という観点から、もう少しそれを掘り下げて、約束の地に入ったイスラエルの民と、この「救い」という約束の地に入っている今日の私たちの場合とを比べながら、3つのポイントでみことばメッセージを語りたい。
【本論】
先ず第一のポイントは、その救いの完成の始まり、神が私たちを救おうと計画された始まりはどこにあったか?―「どこから始まったか?」ということ。
(1)始まりはどこから:
①イスラエルの民の場合:
ヘブル11:8~10:「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
アブラハムとイスラエルの民は、神によって設計され、相続財産として用意されていた約束の地に、「出て行け」という召しがあって、彼、また彼らはそれに応えるようにして出て行った。そして入って行った。それが始まりだった。
※そう!彼らの場合は、神の召し、神からの呼びかけ、神の選びが初めにあって、始まった。では、私たちの場合はどうだろう?
②私たちの場合:
エペソ1:3~11:「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。1:8 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、1:10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。1:11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」
世界の基の置かれる前から私たちの救いは予め定められていた、つまり、アブラハムの場合と同じように、神様の予めの計画だったということです。
※これは驚くべきこと!―私たちは何という救いに預かっていることだろう!
この世界、この地球が誕生してから何年になるか、諸説があるが、聖書的に言うならば、今年は5782年(ユダヤ紀元)。ユダヤ紀元では、創世記1:1:「初めに、神が天と地を創造した。」という天地創造の出来事の時点を5782年前と計算している。それは、初めの人、アダムが造られる前のすべての創造の出来事を、文字通り6日間と計算した結果です。しかし、自然科学者はこの宇宙の成り立ちをいろいろな理論によって、138億年前、地球は46億年と計算している。私は聖書の5782年をそのまま信じている。何故なら、ヘブル11:3:「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」とあるからです。
いずれにしても、聖書は私たちの救いというものは、この世界の基の置かれる前から、キリスト・イエスの内に置かれ、そして、時至って、私たちは救われたという。
(2)これは相続によるものであるということ
アブラハム、イスラエルの子孫の場合も私たちの場合も、カナンの地に入ること、救いに預かることは、どちらも相続であることが先ほどのみことばによってはっきりと語られていた。
ヘブル11:8:「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」
エペソ1:11:「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。」
相続というのは、相続権のある人が受けることの出来るもの。普通は血縁です。だから、アブラハム・イスラエルの民の場合には、モーセの律法にそのことが記されていた。良く知られているのが、ルツ記の鍵になっていた「買戻しの権利」のこと。つまり、血縁が鍵であった。しかし、天にある霊的祝福、救いの場合はそうではない。それは、イエス様の血潮の力、権威によるもの。だからイエス様は、イスラエル人、ユダヤ人としての血縁を誇り、それに安住していた人たちに、次のように言った。
マタイ3:9:「『われわれの父はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」
またパウロはこう言った。
ローマ2:28~29:「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
イエス様もパウロも、救いは物理的な血統によるのではなく、御霊による働き、イエス様の血潮によるものだと言ったのです。
エペソ1:5~7:「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」
※そう!私たちはイエス様の血潮による贖いによって、天にある霊的祝福、神の子としての立場、罪の赦し、救い、永遠のいのちを無代価で相続する者となりました。ハレルヤ!その恵みを感謝しよう。
(3)信仰と従順によって相続を実現すること
①アブラハム・イスラエルの民の場合:
ヘブル11:8~9:「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」
アブラハムとイスラエルの場合は、信仰と従順によって約束の地を相続する者となった。実際にはまだ手にはしていなかったが、しかし、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13)とあるように、彼らは、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」つまり、先取り信仰によって、約束の地を相続したのです。私たちの場合はどうだろうか?
②私たちの場合:
エペソ1:11~14:「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。1:12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」の「保証」とは前払い金、手付金、保証金です。それがもう私たちには与えられているのです。先取り信仰だけではなく、もう既に与えられているのです。だから、私たちはそれを持ち続けなければなりません。そのためには、私たちにも信仰と従順が必要です。途中で投げ捨てたり、諦めたりしてはならないのです。だから、救いの完成を見るまで、どんなことがあっても、約束の地の相続を自分のものとするために、最後まで信仰を持って歩み続けよう。
【結論】
引用:エリザベス女王(2022年9月8日召天)の言葉
ヨシュア13:1:「ヨシュアは年を重ねて老人になった。【主】は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。』」
私たちは皆それぞれ年を重ねて老人になった。しかし、私たちの教会はまだカナンに地に入ったばかりのようなもの。まだ一年生です。私たちにはまだ占領すべき地がたくさん残っている。だから、その地を取るまで、その地の相続を実現するまで、途中でどんなことがあっても、神様の約束を信じて、諦めずに、希望を持って、「天にある霊的祝福、救いも癒しも解放も、イエス様が贖って下さったすべての祝福は、もう既にすべて私たちの相続地です。私たちのものです。」
と告白して、歩んで行こう。
―祈り―
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