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2022. 8.14 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

 ヨシュア11:23(1~23)


【タイトル】

 ヨシュア記(18)「こうして、その地に戦争が止んだ。」


【導入】

Ⅴ23:「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて【主】がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。」とあるが、今日はこの箇所から、イスラエルの民がカナンの地に侵入し、「その地をことごとく取った。」とあるように、その地を占領し終わり、「イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた」ら、「その地の戦争がやんだ」というところから、2月24日に始まって、未だに続いているウクライナでの戦争、そして先日、アメリカのペロシ下院議長の台湾訪問によって始まった中国の、日本を含む台湾領海への軍事行動、その他、エチオピアやイエメン、アフガンやミャンマーなど、小さい規模まで含んだら、未だに紛争や軍事衝突が続いている国や地域が世界で50ヶ所以上もある、そのような戦争や紛争はどうして起きるのか、また、「その地の戦争がやんだ」とあるように、何が終結をもたらすのかということについて考え、最後に祈って行きたい。


【本論】

この時、どうしてカナンの地での戦争はやんだのか?!―理由は2つある。


 先ず1つ、「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った」とあるように、戦う理由や目的を果たしてしまったので、もう戦う必要がなくなった。なので、もう戦いをする必要がなくなった、戦いはやんでしまった、ということです。


 ヨシュア達イスラエルの民は、エリコの町やアイの町を攻略した後、ギブオンの人々のイスラエルとの和睦の工作の出来事に端を発し、カナンの南半分の地域を征服した。そして、北半分の地域の征服の有様はⅤ1~Ⅴ15に記されている。読んでみよう。


Ⅴ1~Ⅴ15:「ハツォルの王ヤビンは、このことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、11:2 また北方の山地、キネレテの南のアラバ、低地、西方のドルの高地にいる王たち、11:3 すなわち、東西のカナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、山地のエブス人、ミツパの地にあるヘルモンのふもとのヒビ人に使いをやった。11:4 それで彼らは、その全陣営を率いて出て来た。その人数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かった。11:5 これらの王たちはみな、相集まり、進んで来て、イスラエルと戦うために、メロムの水のあたりに一つになって陣を敷いた。11:6 【主】はヨシュアに仰せられた。『彼らを恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするからだ。あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。』11:7 そこで、ヨシュアは戦う民をみな率いて、メロムの水のあたりで、彼らを急襲し、彼らに襲いかかった。11:8 【主】が彼らをイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは、彼らを打ち、大シドン、およびミスレフォテ・マイムまで追い、さらに東のほうでは、ミツパの谷まで彼らを追い、ひとりも生き残る者がないまでに彼らを打った。11:9 ヨシュアは、【主】が命じたとおりに彼らにして、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いた。11:10 そのとき、ヨシュアは引き返して、ハツォルを攻め取り、その王を剣で打ち殺した。ハツォルは以前、これらすべての王国の首都だったからである。11:11 彼らは、その中のすべての者を剣の刃で打ち、彼らを聖絶した。息のあるものは、何も残さなかった。彼はハツォルを火で焼いた。11:12 ヨシュアは、それらの王たちのすべての町々、および、そのすべての王たちを捕らえ、彼らを剣の刃で打ち殺し、聖絶した。【主】のしもべモーセが命じたとおりであった。11:13 ただしイスラエルは、丘の上に立っている町々は焼かなかった。ヨシュアが焼いたハツォルだけは例外である。11:14 これらの町々のすべての分捕り物と家畜とは、イスラエル人の戦利品として自分たちのものとした。ただし人間はみな、剣の刃で打ち殺し、彼らを一掃して、息のあるものはひとりも残さなかった。11:15 【主】がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行い、【主】がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった。


 そして、Ⅴ16~Ⅴ19と、Ⅴ21~Ⅴ22で、まとめてカナンの地の完全征服の有様が記されていた。


Ⅴ16~Ⅴ19:「こうして、ヨシュアはこの地のすべて、すなわち山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、低地、アラバ、およびイスラエルの山地と低地を取り、11:17 セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアル・ガドまでを取った。また、それらの王をことごとく捕らえて、彼らを打って、殺した。11:18 ヨシュアは、これらすべての王たちと長い間戦った。11:19 ギブオンの住民ヒビ人を除いては、イスラエル人と和を講じた町は一つもなかった。彼らは戦って、すべてのものを取った。


Ⅴ21~Ⅴ22:「そのとき、ヨシュアは行って、アナク人を、山地、ヘブロン、デビル、アナブ、ユダのすべての山地、イスラエルのすべての山地から断ち、彼らをその町々とともに聖絶した。11:22 それでイスラエル人の地には、アナク人がいなくなった。ただガザ、ガテ、アシュドデにわずかの者が残っていた。


 そして、今日の箇所になるわけだが、今日の聖書箇所の「こうして」が、そのすべてを物語っている。「こうして、その地に戦争はやんだ。」のである


このことを私たちの場合で考えるなら、どう考えたら良いだろう?―私たちの場合もこの世において戦いがある。それらの戦いが、「その地=私たちの生活の場、戦場」で止んだということは、何が理由だったのだろうか?―それは、私たちの戦う「戦いの場」である戦場、足場、根拠、言い換えるならば、火種、原因がなくなったからなのである。=イスラエルの民にとって戦う場が無くなったように、私たちの場合にも、戦く戦場、足場、根拠、目的、理由がなくなれば、戦いは止む!


 「火のないところに煙はたたない」という諺や、「食べ残しや食物ゴミがないところにはネズミやゴキブリは来ない」とよく言われる。そのように、戦う原因や目的、理由がなければ、戦争や紛争、争いは起きない、起きても止むのである。戦いや紛争が起きるのは、そこに原因や理由、また目的があるからです。聖書はそのことをはっきりと次のように述べている


ヤコブ4:1:「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。


 「からだの中の戦く欲望」が原因だと。これは、「戦いを引き起こすほど強い欲望が、戦いを引き起こす」、或いは「戦ってまでしても、あれが欲しい、これが欲しいと思う欲望が戦いを引き起こす」ということ。つまり、自己中心性が戦いを引き起こすということなのである。だから聖書は続けて、次のように言う。


ヤコブ4:2~3:「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。


 いつも、「自分自分!」と、自分の欲望だけを満足させたいと願っている人は、争ったり、戦ったりすると言うのです。しかし、それが無くなってしまえば、戦いは止む


 今回のウクライナの戦争もそうではないだろうか?―プーチンのロシアという国に対する歴史観、国家観があって、昔のロシア帝国のような国の復興を夢見て、ウクライナに侵攻した。ウクライナの自立を元々快く思っていなかったのである。だから、この戦いはプーチンのからだの中の戦う欲望から出た戦争。一刻も早く終わって欲しい。


 次に、「こうして、その地に戦争はやんだ。」の経緯、理由の二つ目は、Ⅴ23:「すべて【主】がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた」が理由である。


 聖書が言うように、このカナンの地がイスラエルに割当地として与えられるということは、主が予めモーセに告げていたことであった。


出エジ3:8:「わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。


※つまり、この戦争は神の計画によって始まり、神の計画によって終わった、ということ。


Ⅴ20:「彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、【主】から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、【主】がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった。


 これは、一切のことは神の主権の下にあり、すべての出来事は神の摂理、御計画の中で起きること、起こされることである、ということを示している。そういう神との関係の中で生かされ、生きる者として、私たちはどのような心で生きたら良いだろう?―ヤコブはさきほどの4章で、続けて次のように記している。


ヤコブ4:4~6:「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。4:5 それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』


 神の身許で遜り、すべては神の恵み、として受け取って、その恵みによって生きることの大切さを教えている。


ヤコブ4:13~15:「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。4:14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』


 しかし、それはただ「遜る」ということだからいって、ただロボットのように、黙々と、無感動に従うということでなく、その恵みに対する感謝と喜び、感動と驚きをもって生きることでもある。ダビデは、そんな信仰者の感謝と感動、喜びと驚きに満ちた人生について、次のように謳っている。


詩篇144:1~4:「ほむべきかな。わが岩である【主】。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。144:2 主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。144:3 【主】よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。144:4 人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。


【結論】

 私たちはこのように、一方的に救いに預かり、カナンの地を歩む者、信仰生活を送る者とされた。それは、与えられた恵みに感謝し、ただ主に従って歩む中に、神の御心が行われ、成就し、それによって、また私たちもさらに優れた恵みが与えられて、私たちが信仰から信仰へと、感謝と喜びを持ち、感動と驚きをもって、ただ遜って神と共に歩むこと、これが、神が私たちに願っていること。神が私たちのすべてなのである。こうして、戦いは止むのである


―祈り―

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