【前置】
前回はコロサイ3:1~4のところから、キリストを信じる者としての実践編、クリスチャン生活の要①として、「上にあるものを求めよう」というメッセージを語った。「上」とは神が完全に支配されているところ、つまり神の国、またキリストの満ち満ちた姿に変えられた私たちの完成された姿のこと。その姿を目指して、神の国とその義を第一に求め、上に向かって、前に向かって歩んで行こうというのが、前回のメッセージだった。
今日はその続きで、クリスチャン生活の要②として、私たちがクリスチャン生活を送るに当たり、身に着ける衣について、みことばから学ぶ。
【序論】
今日読んだ個所のうち、Ⅴ5~V8は、先週のヨシュア記(23:1~16)からのメッセージ「ヨシュアの訣別説教①」の中で、「偶像礼拝を捨てること」に関連して引用した聖書個所である。ここには先ず、第一の衣のことが語られている。それは、「偶像礼拝の衣」のことである。聖書はそれを脱ぎ捨てろと言う。
(1)偶像礼拝の衣を脱ぎ捨てろ
人間には基本的に3つの欲求があり、人はそれを満たすために偶像を造ってしまうことを前回語った。基本的欲求とは、①安心・安全欲、②受容・承認欲、③自尊欲という3つの欲求のこと。それらは人間にとって生存するのに必要なものなので、それ自体は良いが、その欲求があるがため、人は神社や仏閣に行って祈ったり、資格や学歴、パフォーマンスを上げて社会的ステータスを得ようとしたり、人から認められようとして頑張ったりするわけです。しかし、いつも上手く行くわけではない。また皆が上手く満たされるわけではない。なので、人は自分の中だけでそれらが完結するもの、趣味やオタクの世界、また、薬物やアルコールなど物質の力を借りて、或いは「ワークホーリック」という言葉があるように、ガンバリズムを「代替えのもの」として、その欲求を満たそうとする、ということだった。だから、それらの代替えのもの、このV5では、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼり」という「地上のからだの諸部分」という言葉でまとめられているものを「殺してしまいなさい。」と言う。
では、「殺してしまいなさい。」とはどういうことか?―
抄訳聖書:V5:「そういうわけですから、あなたがたの肢体の中に潜んでいる悪い欲棒〈いろいろな動物的衝動、罪に用いられるあなたがたの中の地上的なもののいっさい〉を殺しなさい〈死んだものにしなさい。力を奪い取ってしまいなさい〉(LB:縁を切りなさい)。〔それはすなわち〕性的悪徳、汚れ、感覚的欲望、きよくない欲望であり、またすべての貪欲〈むさぼり〉です。なぜなら、これは偶像礼拝〔神の代わりに自分自身とその他の被造物を神にすること〕であるからです。」
「殺してしまいなさい。」とは、「死んだものにしなさい。力を奪い取ってしまいなさい。縁を切りなさい」=「関係を切りなさい、関りを断ちなさい」ということ。そして、そのようなものと「縁を持ち続ける、関係を持ち続けるということ」が、偶像礼拝であって、神ではない神の代替物を、自分の欲求を満たしてくれる、何でも可能にする神にするな、ということなのです。
※まことの神だけが、私たちの欲求を真に、健全に満たしてくれる方だからです。
次の衣は、クリスチャン生活において、偶像礼拝の衣は脱ぎ捨てていなければならない衣であったこととは違い、着なければならない衣、着ていなければならない衣のことである。
(2)新しい人の衣
聖書は、私たちの着る衣、正確に言うなら、「着ている衣」、これから着るのではなく、「もう既に着ている衣」について、どのように言っているだろうか?―
V9b~V11:「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」
※聖書は明確に、私たちは「古い人」、つまり罪赦される以前の私たち、Ⅴ5で挙げられていたような罪を犯していても平気であった私たち、また、Ⅴ8に挙げられているような行い、怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉を言うような罪の行いを犯していた、罪人としての「古い人であった私たちを脱ぎ捨てて」、「新しい人を着たのです。」と言う。そこには明確に、私たちに関して2つの違いが記されている。
①「古い人であった私たち」と「新しい人である私たち」
②「その古い人を脱ぎ捨てて」の「脱ぎ捨てた」ということと、「新しい人を着たのです。」の「着た」ということです。
①の違いは、質的な違いです。②の違いは、行いの違いです。それも、全く真逆の違い。つまり、脱ぎ捨てたら、もうそれは着ていないし、着たら、脱ぎ捨てない限り、今ももう着ているということ。そしてその変化には、時制においても違いがある。「脱ぎ捨てて」も「着たのです」も、どちらも、時制としては、現在形ではなく、変えることの出来ない不定形過去の出来事(アオリスト)として、そして、英語では現在進行形で書かれている。つまり、私たちはもう、古い罪人としての古い衣は脱ぎ捨てて、今はもう新しい衣を着ている者となったのだ、ということなのです。これは、Ⅱコリント5:17のみことばと同じです。
Ⅱコリント5:17:「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
では、それがいつ起こったのか?―それは、キリストを信じた瞬間です。そして、
コロサイ2:12:「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」
は、そのことを言っている。バプテスマ、つまりキリストを信じて、キリストと一体になる。その時私たちの古い人は死に、古い衣は脱ぎ捨てられ、キリストの復活と共に、私たちは新しい人=新しい衣を着て、新しい命によって生きるのである。そして、ますます新しくされ、そして、真の知識=完全な姿に造り変えられて行くのです。(V10)
V11:「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」という。
その新しい人としての「クリスチャン生活の衣」の一つに、今日の聖書個所は、私たちの口から出る言葉が、その私たちが着る、着ている衣の一つであると教えている。
(3)口から出る言葉の衣
つまり、私たちがクリスチャンとして、どんな言葉を語るか、ということ、それが私たちのクリスチャン生活における衣であるという。
皆さんは、日々、どんなクリスチャン生活の衣としての言葉を語っているか?―聖書は先ず、
V8~V9a:「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。3:9 互いに偽りを言ってはいけません。」と言っている。
そして、そうではなく、むしろ
コロサイ4:6:「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」
と言っている。私たちは皆、世の光、地の塩です。だから、私たちの口から出る言葉も塩味の効いたものでなければならない。お互いにとって、益になるための言葉。励まし、慰め、時には戒め、...の言葉を語りなさい、と言う。
コロサイ3:16:「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
その理由、目的は、
V10:「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
だからです。一人一人が、また教会が、造り主である神のかたちに似せられて、ますます新しくされ、真の知識=完全なる姿に造り変えられて行くためです。私たちは皆、そのような衣を着ているのです。そのような言葉を語る者です。
引用例:①羽田空港での警官の言葉、②第3ターミナル近くのホテルの警備の人の言葉。③上尾中央総合病院での駐車場係の人の言葉。
【結論】
私たちはどのような言葉の衣を着ているだろうか?―私たちは限りなくキリストに似た者と造り変えられて行く者です。だから、私たちの口から、キリストを知る知識の香り(Ⅱコリント2:14)が放たれるような言葉、塩味の効いた言葉、互いがキリストの姿に造り変えられて行くための言葉を、お互いに口から出すものでありたい。
―祈り―
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