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2022.12. 4 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

コロサイ2:16~23


【タイトル】

コロサイ書(12)「キリスト信仰とは何か②」


【前置・報告】

 アドベント2週目。そろそろメッセージにおいてもクリスマスに因んだものにして行きたいところだが、今日と次回はいつものメッセージを語る。今日は、先週に続いて、コロサイ書の講解説教。聖書個所はコロサイ2:16~23。テーマは、「キリスト信仰とは何か?―何であって、何でないか?」というテーマの2回目です。

【本論】

V16~V17:「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」

 「こういうわけですから」、前の箇所で言っていたことを受けた言葉。前の箇所では何と言っていたか?振り返ってみると、V14:「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」と言って、私たちはキリストの十字架のみわざによって、私たちの罪は完全に赦されたという「完全な罪の赦し」が語られ、そして、V15:「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」と、ただ「完全な罪の赦し」だけではなく、私たちを責め立てている悪魔に対して勝利し、悪霊たちを捕虜として凱旋行列に加え、神の御前に連れて行く完全な勝利者にして下さったということが語られていた。

 そして今日の箇所はそれを受けて、V16:「こういうわけですから、…。」と、パウロは私たちのキリスト信仰について、この後、幾つかのことを述べている。その内容は、「キリスト信仰は…ではなくて、…である」というように、人がキリスト信仰について間違って見てしまいがちな点を指摘し、正しいキリスト信仰の姿を教えている。今日はそのことについて見て行きたい。今日も3つのメッセージがある。​

(1)(キリスト信仰は)形式や規則ではなく、本質的なものである

V16~V17:「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」​

 一般に、宗教や宗教的な事柄については、多くの人々は、何か堅苦しく、形式的なもの、「これをしてはならない。あれはしてならない。ああしなければならない。こうしなければならない。」と、しきたりや決りが沢山あるようなものと考えている。私たちの持っているキリスト信仰に対してもそう。皆さんも、周りの日常生活の中でそのようなことは体験していると思う。

 この時、コロサイの教会でもそうであった。コロサイの教会は異邦人教会だったが、そこにはユダヤ人も混じっていたし、また、律法主義的なユダヤ人クリスチャンたちがやって来ては、彼らが守っているモーセの律法や風習、伝統的なしきたりを持ち込んで、「割礼を受けなければ救われない」とか、「こうしなければならない、ああしなければならない、」と、食べ物や飲み物のこと、祭りや新月、安息日のことでいろいろ言っていた。「祭り」というのは、ユダヤの3つの祭り、「過ぎ越しの祭り」、「五旬節の祭り」、「仮庵の祭り」の他、ラッパの祭り、新年祭、ハヌカ(宮清めの祭り)、プリムの祭り等々、また、「新月」という「新月の祭り」、毎週の安息日の宗教的祭儀があった。また、安息日には一切労働をしてはならないと言う律法もあった。彼らはそれらを守るように押し付けたり、守ってはいても、「そのやりかたは駄目だ。こうしなければならない、ああしなければならない」と言ったり、やらない場合は、非難や裁きがなされた。それが、「だれにもあなたがたを批評させてはなりません。」という「批評」という言葉に表れている。

宗教や信仰、その他、何らかの規則や決り事、伝統、風習があるところでは、このように、考え方の違い、価値観の違いから、裁き合いや差別が起こる。しかし、私たちはそうであってはならない。何故なら、V17:「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」だからです。

 形式、規則も大事だが、枝葉末節にとらわれず、本質的なことに目を留めよう。聖書は、それはキリストにあると言う。キリストは、(ヨハネ14:6a:「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」)と言うからである。

(2)(キリスト信仰は)御使い礼拝や霊的な宗教もどきの事柄ではなく、確固としたものである

V18~V19:「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」

 「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり」とあるが、「自己卑下」については次のところで語る。ここでは(1)と同じように、キリスト信仰について陥りやすい、「御使い礼拝」や「霊的な、もっともらしい宗教的な事柄」について語る。

 「御使い礼拝」というのは、当時も今も人々が持ちやすい、キリスト以外を神と人との間の仲介者にして礼拝すること。例えば、人には誰にでも「守護霊」がいるから、守護霊に守ってもらいなさいと言って、怪しいことを教えたり、あの人は霊感が強いから、あの人にお願いしなさいというように、人を霊媒者、神、特別な存在のようにして教え、礼拝させること。これらは悪霊から来るものである。しかし、聖書ははっきりと、神と人との間の仲介者はキリスト・イエス以外にはいないと言っている。

Ⅰテモテ2:5:「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」

 また、私たちはしばしば不思議な体験、神秘的な体験をすると、それを普遍化してしまって、誰にでもそれがなければならないかのように言うことがある。それらの霊的体験も大切だが、それ以上に大切なのは神御自身を知ること、神御自身を体験すること、神御自身としっかりとつながることです。それが、V19:「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」ということです。

※かしらなる方、キリストにしっかりと繋がって行こう。そして、確固なる信仰を持って行こう。

(3)(キリスト信仰は)禁欲主義や自己満足的なものではなく、実質的で、有益なものである

V20~V23:「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。2:22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」

 これもまた、(1)や(2)と同様、信仰や宗教的なことに関して、人が陥りやすいところ。しかし、人は禁欲的であると、いかにも敬虔な人のように思われやすい。或いは思いやすいものである。そう言った的外れの思いや勘違いはどこから来るのだろう?―それは、神中心でなく、自己中心の見方や考え方から来る。神様に目が向いているのではなく、自分に目が向いているからである。

 イエス様は断食、これこそ禁欲的に見える最たるものだが、その断食について、弟子たちに次のように言った。

マタイ6:16~18:「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」

※結局、関心がどこにあるのかということ。自分にあるのか、神にあるのか、神様との関係にあるのかどうかということである。

※いつも言うように、「信仰」というのは「関係」のこと。ある人はお金信仰があるから、お金との関係をいつも気にし、大事にする。ある人は、人信仰があるから、人との関係を大事にする。

 また、間違った禁欲主義的な人たちは、その真の信仰のことが分からないから、この世のことを楽しんだり喜んだりしてはならないかのように言う。例えば、「テレビはだめ、映画もだめ、娯楽もスポーツもダメ。『ダメダメダメ』と、世の中のすべてのもの、すべてのことは悪いもので、それらを楽しんではならないと言う。それらと関りをもってはならないと言う。しかし、イエス様はどうだっただろう?―イエス様はそのような人々から「食いしん坊の大酒飲み」(マタイ11:19)と言われた。実際はそうであったわけではないが、罪びとたちや取税人たちと一緒に食事をしていたから、罪びとたちや取税人たちがそうだったので、イエス様もそのように言われた。しかし、イエス様は彼らとの食事、交わりを大切にされた。それは、イエス様にとって、彼らを大切な存在だったから、愛していたからです。

 また、この議論の的の食べ物については次のように言われている。

Ⅰテモテ4:1~4:「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。 それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」

 禁欲主義的な人たちは、いろんなことを「駄目」とするが、大切なことは、神との関係の中で見るということである。そして、どんなに良いものでも、神様との関係以上に良いもの、大切なものにしてはならないということなのです。これが神信仰、キリスト信仰です。これに尽きる。

【結論】

※「このお方」をあがめよう。礼拝しよう。

―祈り―

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