【前置】
先週はアドベント礼拝ということで、アドベントの中心は何か?ということで、それは「主を待ち望むこと」ということについてメッセージを語った。今日はクリスマス礼拝ということで、クリスマスとは「何なのか」ということ、そして「それは私たちとどういう関係があるのか」ということについてメッセージを語って行きたい。聖書個所は、Ⅰヨハネ4:7~10です。
【聖書箇所】
Ⅰヨハネ4:7~10:「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
【導入】
皆さんはもうクリスマスの贈り物、もらっただろうか?もしそうでなければ、これから貰うのでしょう。このようにクリスマスには贈り物が付きものだが、どうしてクリスマスには贈り物があるのだろうか?ある人にとっては、「クリスマスにはそれがあるからクルシミマス(苦しみます)」という人もいる。何故クリスマスには贈り物があるのか?そもそもクリスマスとは何なのか?先ずそこから今日のメッセージを始めたい。
【本論】
クリスマスとは何か?―先ず、言葉の意味から。「クリス:キリスト」+「マス(ミサ):礼拝」=キリストを礼拝すること。では、何故キリストを礼拝するのか?―聖書には、そのクリスマスの原型とも言ってよい、キリストを礼拝する人々の姿が描かれている。よくクリスマスカードや絵本の中で描かれている三人の博士のキリスト礼拝の姿や、羊飼いたちの礼拝風景である。東方の博士たちの礼拝の姿を見てみよう。
マタイ2:1~12:「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」
「羊飼いたちの礼拝」については、ルカ2:8~20にある。今見たように、クリスマスというのは、先ずキリストを礼拝することである。
では、何故キリストを礼拝するのか?それは私たちとはどんな関係があるのか?―それは、イエス・キリストという言葉が示すように、「イエス=主は救い」、「キリスト=その使命のために油注がれた方」、あのベツレヘムの馬小屋で生まれたイエス・キリストは、私たちを、罪と罪の支払う報酬、その結果としてもたらされる死から救うために、救い主として生まれたからです。
Ⅰテモテ1:15a:「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」とある通り。
「罪」というのは、この世の犯罪と言う意味の罪ではなく、私たちを造られた神との関係における「罪=ハマルティア」です。昔、聖書が書かれた時代、ギリシャのアーチェリー競技で、的を~cm外したら、「~cmハマルティア」と呼ばれて、的から~cmだけ外れているということを示す言葉だった。つまり、私たちは神の子として造られ、神の子としてある目的と計画をもって造られたのに、そのアイデンティティーや目的や意義を見失い、自分は何者で、何のために生きているのか分からなくなって、空しく生きる者となったこと。それが、聖書では「罪、ハマルティア」という。
※聖書で初めに罪を犯したアダムとエバがどうだったか、皆さん知っているだろう。彼らは、神がしてはならないと言われた善悪の知識の実から取って食べた時、何が起こったか?!―彼らは、それまで裸であることを知らなかったので隠すことはなかったが、善悪の知識の実を食べてから、彼らは裸であることを知って、そんな的外れの善悪の基準から、「あー、これは恥ずかしい。」と思い隠した。何故「恥ずかしい」と思ったのか、罪、的外れを起こしたからだ。
神様はすべての物を造られ、アダムとエバという人を造られて、そしてそれらを見て、「非常に良かった。」(創世記1:31)と言った。それなのに、彼らは罪を犯してから、自分の姿を見て、「あー、恥ずかしい」と、神様の造られた裸を恥ずかしいと思ったと言う。それが罪、神様の見方と的が外れているという意味で、罪=的外れです。
そしてその後、神様は彼らに、「あなたは、どこにいるのか。」と呼び掛けられると、彼らは恐れて隠れたとある。またその後、神様は彼らに、「どうして食べてはならないと命じておいた木から、命令を守らずに食べたのか?」と訊くと、お互い、責任転嫁をした。それらは創世記3:7~13に記してある。
※ここに、罪を犯した結果、私たちが的外れのために、誰でもが結ぶ、経験する実が記されている。「恥意識」、「恐れの感情」、「罪意識」、「恐れからの責任転嫁、プライドからの責任転嫁」等です。これらの問題で悩んだことの無い方はいないだろう。私たちは皆、罪を犯したので、何らかの状況で、これらの問題を抱えて苦しむ。そして、それだけではなく、最終的には「死」を前にして苦しむ。
※しかし幸いなことに、ここにそれらの問題からの救いと解放がある。私たちが、先ほどのみことば、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということを信じるなら、私たちはそれらの罪から、その苦しみから救われるのです。
ローマ3:23~24:「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
罪の赦しだけでなく、あらゆる煩い、あらゆる病からも救われる。
イザヤ53:5:「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
※これがクリスマスの中心、神からの私たちへの贈り物です。私たちにはこのような贈り物が必要です。私たちはどれだけ、罪=的外れの見方、考え方、生き方のために、苦しまなくてもよいことに苦しみ、悩み、絶望しただろうか?!恥意識、恐れ、プライド、劣等感などでがんじがらめになり、「あー、もう駄目だ。」と思ったことはないだろうか?!―それだけ、私たちには罪の赦し、罪からの解放、癒しが必要です。
では、何故神はこのように、これらの贈り物を送って下さるのだろうか?―今日のみことばの後半、Ⅰヨハネ4:9~10は、その理由を明らかにしている。
Ⅰヨハネ4:9~10:「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
神が私たちを愛しているからです。この愛は無条件の愛であって、赦しや癒しや解放を受ける価値のないような私たちのために、ひとり子であるイエス・キリストをこの世に送り、私たちのために十字架に付けて下さり、罪の赦し、病の癒し、救い、解放を与えて下さるほどに、私たちを愛しているからです。神は愛だからです。これが、クリスマスの中心、贈り物です。
また、そこにはもう一つの贈り物がある。それは、私たちが神から受ける愛だけではなく、私たちが神に、そして人に与える愛です。それが、今日の聖句の前半のみことばです。
Ⅰヨハネ4:7~8:「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」
しかし注意しないと、このことは、私たちを宗教的、律法主義的、形式的、義務的な「ねばならない主義的」クリスチャンにしてしまう。
※私たちが神を愛して礼拝することも、また人を愛して愛の行ないをすることも、それらは義務ではない、ねばならないからするのではない。自発的に、自然と、私たちの内から愛が沸き上がって、愛が私たちを突き動かして、そして神を礼拝し、また人を愛する、言い方を変えるならば、善行をするのである。何故なら、神が私たちを無条件の愛で愛して下さったように、その愛で私たちも互いに愛し合うように、愛するように言われているからです。今日の聖句の前半は、そのことを言っている。
イエス様の今の時代に生きる私たちに対して、次のように言っている。
マタイ25:31~40:「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」
いつそのような善行をしたのか分からないほど、この人たちは、自然に善行、愛の行ないをした。それは的外れの罪の眼鏡でしたのではなく、無条件の愛の眼鏡、神の子どもとしての眼鏡によってしたからである。それが「愛する」ということ。神が私たちに求めている「愛する」、「互いに愛し合う」ということは、このような愛です。義務的な愛でもなく、「ねばならない愛」でもない。ただ、私たちは神のこのような愛で愛されているので、その愛に感謝して、その愛に突き動かされて、その愛に満たされて愛し合うのである。
※それが、もう一つのクリスマスの贈り物です。
【結論】
今日、先ず、神が愛して下さっているその愛を受け取ろう。そして、その愛で神を愛し、あの三人の博士のように、心からのささげものをささげ、そして、互いに愛し合って行こう。これがクリスマスの中心、クリスマスの贈り物です。
―祈り―
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