【前置】
アドベント4週目に入った。いよいよ来週がクリスマス礼拝。私たちの教会ではあまりアドベントのことを意識しないが、今年は少し意識して、今日はアドベントのメッセージを語る。
アドベントとは何か?―5世紀頃、西方教会(カトリック教会)で始まった教会行事で、クリスマスの日を迎えるまでの4週の間、一週毎に4本用意した蝋燭の1本1本に火を灯し、4本が灯ったら、次の週はいよいよクリスマスということで、その期間を主の降誕、現われ(エピファネイア)を待ち望みながら過ごす時ということで、「待降節=主の降誕を待ち望む時」と呼ばれる。因みに、1054年に西方教会から分離した東方教会ではアドベントの祝いはやらない。私たちプロテスタント教会は、西方教会の流れの中で産み出て来た教会なので、アドベントを祝うという伝統を引き継いでいるのである。
さて、アドベントの歴史的経緯は別にして、今日はそのアドベントのメッセージ、主の降誕、顕現、現われを待ち望むことのメッセージを語る。
【序論】
今読んだところにアドベントの主役とも言える、主の降誕を待ち望んでいた二人の人物が出ていた。シメオンという人と女預言者アンナという人である。しかし今日は、シメオンという人物だけに焦点を当てて、「アドベント=主を待ち望むこと」とは、どういうことか?―「主を待ち望むこと」の意味について、その中心にあるものについて、みことばから分かち合って行きたい。
【本論】
「主を待ち望む」ということは、先ず第一に、文字通り「待ち望むこと」です。
(1)待ち望むこと
V25:「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」
この「待ち望んでいた」の「待ち望む」という言葉は、原語では「プロスデコマイ」と言う言葉が使われているが、その言葉が「に向かって」という「プロス」と「受ける。貰う。受け取る」を意味する「デコマイ」と言う言葉の2つによって成っていることから分かるように、この「待ち望む」は、ただ「受動的に待っている」ではなく、「積極的に待っている」、「未だか未だかと待っている」、日本語には「首を長くして待つ」と言う言葉があるが、そのように、「首を長くして、首だけではなく手を伸ばして、体ごと前のめりになって待っている」というような待ち方です。
パウロは、ピリピ3:13~14で、キリストのようになりたいという、彼のキリストに対する熱い思いを表すのに、次のように言っていた。
ピリピ3:13~14:「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
この「前のものに向かって進み」の中に、「プロス」=「に向かって」と言う言葉が使われていて、パウロはキリストのようになることを目指して、それに向かって一心に、待ち望みながら走っているのだ、ということを言おうとしているのだろう。
シメオンも、この人の年齢が何歳であったのかは分からないが、かなりの高齢であったことはイエス様を見た後の彼の賛歌から想像がつく。
V29~V30:「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」
だから何歳であったにしろ、彼は長い間、「イスラエルの慰められること」、つまり、「旧約聖書が預言していたメシヤである救い主の出現」を、首を長くして、ずーっと待ち望んでいたのである。これが先ず、「待ち望む」ということの第一の中心、意味するところです。次に、待ち望むことの中心は、
(2)飢え渇くこと、飢え渇きの伴うこと
彼は「正しい、敬虔な人で」とあるように、彼は神の前に真っすぐで、神を神として、神を第一にしていた人だった。ちょうどダビデが、詩篇16:8a:「私はいつも、私の前に主を置いた。」としていたように、この人もいつも自分の前に主を置いて、主が約束していたキリストの出現を今か今かと待っていたのである。それも、V26:「また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。」とあるように、キリストの出現について、神からの約束を受けていたので、彼はずーっと待っていたのです。だから当然、その約束の実現を見るまでは、彼の魂は、その約束のものを見ることに、文字通り喉から手が出るほどに、飢え渇いていたに違いないのです。それ以外、彼の心の飢え渇きを満たし、癒し、満足を与えるものはなかった。
※「飢え渇き」とはそのようなものではないか!―だから彼はキリストを見た時に、先ほどのみことば、V29~V30のみことばにあったように、V29:「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」と言ったのである。
「安らかに」というのは、原語で「エイレーネ―」で、その意味は、「心騒いでいたのものが静まった。心満たされた。」ということ。だから、彼はキリストを見るまでは、不安と言う意味ではなくて心が騒いでいた。「いつ見ることが出来るか!いつそれが成就するのか!」と期待に心が揺れている状態であった。そんな感じ分かりますよね。何か期待していることが実現するまでは、私たちもそうではないか?だから「待ち望むこと」の中心には「飢え渇き」がある。「待ち望むこと」には「飢え渇くこと」が伴う。
しかし、この待ち望みは決して空しい待ち望みではない。それが第3の「待ち望むこと」の中心にある。ビジネスの世界では、「満期日はいついつで、その日になったら支払う」という約束手形を発行して手形結成をすることがある。だからその手形を受け取った人は、満期日に銀行に持って行くと、その金額を現金を受け取ることが出来るわけだが、その手形が満期日になっても落ちない、つまり、銀行にその額が残ってなく、支払いが出来ないということがある。そのような手形を「空手形」と言う。だから、そのような手形をもらった人は大変で、その時が来たらお金になると待ち望んでいても、その手形がただの紙切れになってしまうからです。
しかし、神の約束に対する待ち望みは、そんなものではない。神の約束は必ず実現するからである。空手形にはならない。必ず成就するからです。だから第3の「待ち望むこと」の中心には、
(3)「必ず成るという確信」がある。
シメオンはそのことについて、さっきも引用したが、そのことは聖霊よって告げられていた。
V26:「また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。」
だから彼は決して疑うことなく、必ず実現すると信じて確信を持って待ち望んでいたので、ヨセフとマリヤに抱かれたイエス様を見た時、彼は確信に満ちてイエス様を抱き、神をほめたたえたのです。
V31~V32:「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
【結論】
イエス様の降誕は二千年前にイスラエルで起きた。そして、その降誕のことを、またその出現を、シメオンはこのように、飢え渇いて、そして確信をもって待ち望んでいた。イエス様の降誕というのは、今の私たちのとっては、それはこれから起こる再臨のこと。この再臨のことは、シメオンがメシヤの降誕、出現のことを聖書を通して知っていたように、私たちも聖書を通して知っている。主の再臨のことは聖書の至る所に記されていて、それを私たちは読んでいるからである。例えば、
ヨハネ14:1~3:「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
このように、主は必ずその時が来れば、つまり、天においての私たちの場所の備えが終われば、再び来られて私たちを迎えられる。
※しかし、ここで大切な一つのことを覚えなければならない。それは、イエス様による天における場所の備えはイエス様だけの準備ではない。それは私たちの行なう準備でもあるということ。イエス様は私たちに、「主の祈り」を教えられた。その中で、イエス様は次のように祈れと教えられた。「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行われますように。」と。つまりこれは、私たちもこの地で、天における私たちの場所の備え、つまり御救いが行なわれるように、この地でも「その場所の備え」と「御救い」が行なわれるように、祈れということです。天と地は霊的には連動しているのです。つまりこれは、この地上における救霊、リバイバルのための祈りでもあるのです。そして、そのための働きでもあるのです。
※私たちはどれほど、シメオンがキリストの降誕を待ち望んでいたように、イエス様の再臨を、すなわち、天でその場所が備えられること、この地上でその備えが為されることを、飢え渇いて、確信をもって待ち望んでいるだろうか。また、そのために福音宣教に燃えて働いているだろうか。
※私たちもシメオンのように、再臨の主、イエス様の出現を、心燃やされて、熱く、飢え渇いて、そして「必ず来る」と確信をもって待ち望もう!
―祈り―
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