【序論】
前回は、コロサイ2:6~7から、「キリストに根差して歩む」というテーマで4つの歩みを見た。①キリストに根差して歩むこと。②キリストにあって建てられて歩むこと。③キリストに対する信仰を堅くして歩むこと。④キリストにあって、すべてに感謝して歩むこと。その4つの歩みを学んだ。今日はその後のV8からのみことばに入る。
パウロはV8で、「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。」と、コロサイの教会の兄姉たちに警告しているが、「あのむなしい、だましごとの哲学」の「あの」とは、何を指しているのだろうか?―それは、前に出て来たV4の、「まことしやかな議論」である。では、その「まことしやかな議論」とはどんな議論、考え、思想であったか?―それは、9月4日のメッセージの中で語ったように、当時の世界の代表的な物の見方、世界観だった「二元論」を初めとするギリシャ思想や文化、哲学など、私たちのキリスト信仰とは相容れない、相容れないどころか、その信仰を空しくさせる哲学、議論、教えであった。一言で言うなら、グノーシス主義という考え方、教えである。
グノーシス主義とは何か?―簡単にまとめると、「精神や霊を良いもの、聖いものとし、物質や肉体を悪、汚れたものとする二元論を初めとするギリシャ思想や文化、哲学に、当時の世界にはびこっていたバビロンやペルシャの東洋的神秘思想が混合したもの」だということ。二元論を中心とした教えなので、キリスト信仰とは相容れないものだと言ったように、「キリストが肉体を持って、人となって生まれたこと」を否定し、救いに関しては、「罪からの救いというより、グノーシスという「知識」を持つことによって、物質と肉で造られているこの悪の世界から救われる」と教えたのである。
だから、私たちが信じている信仰体系である「神がこの世界を造られたという創造論に関すること、人が罪を犯したためにこの世界が悪に染まったとする堕落論に関すること、そして、その世界から人を救うために、神であるキリストが肉体を取って、人として生まれたという救済論やキリスト論」のことを認めない、私たちの神信仰、キリスト信仰、救いのための信仰とは異なる教えです。この教えは、AD1世紀~2世紀に盛んになったが、3世紀になると衰え、5世紀には消滅したという。
パウロはこのV8で、そのグノーシス主義に対して、「そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教え(脚注:霊力、この世の霊によるもの)であって、キリストに基づくものではありません。」と、注意を与えている。と共に、その後の個所で、キリスト信仰の重要ないくつかの点について述べている。
今日のメッセージのテーマは、そのV9以降で語られている、「キリスト信仰の重要な点、キリスト信仰とは何であって、何でないのか?」ということです。キリスト信仰とは何であるか?
【本論】
(1)「キリストが私たちのすべて」であるということ
V9~V10:「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」
先ず、V9:「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」―これは、キリストが神そのものであるということです。コロサイ1:15では、次のように言われている。
コロサイ1:15:「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」
「先に生まれた方」というのは、「初めからおられる方」、つまり「『わたしは、『わたしはある。』という者である。』」(出エジ3:14)というヤハウェなる神様だということです。この「『見えない神のかたちである』キリストが、同じように神のかたちに造られた私たち人間の犯した罪のため、十字架に架かって死んでくださり、私たちを贖ってくださった。」ということを信じるのが、私たちのキリスト信仰です。だから私たちは、V10a:「そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」と言うことが出来るのであり、また、V10b:「キリストはすべての支配と権威のかしら」ということが出来るのです。
「かしら」というのは、その上にあるということ。その上にあって治めているということです。
コロサイ1:15~16:「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」
※このように、キリストが、万物にとって神であり、王の王であり、すべてのすべてであるということ、そして万物は、そのキリストに満ち満ちているということ。また、キリストは私たちにとっても神であり、王の王であり、すべてのすべてであり、私たちもそのキリストに満ち満ちているということを信じているということです。
※しかし、これは当時もあった汎神論、それは、すべての中に神の存在があり、神がすべての中に宿っているという神観、世界観のことだが、このような「神と被造物との存在の合一性、切り離すことはできない存在」のことを言っているのではない。
※私たちのキリスト信仰、神信仰はむしろ反対で、「私たちの罪のために神から切り離されていた私たちが、キリストの十字架と復活の救いのみわざにより、神との関係において和解が与えられ、罪赦されて神と一つになった」ということ、これが、「私たちのキリスト信仰」の第一の中心的ポイントです。
コロサイ1:17~20:「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」
(2)「キリストの割礼」による救いであるということ
V11~13a:「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。」
パウロはここで、彼自身も受けている「人の手による割礼」、即ち、ユダヤ人の男であれば、誰でもが受けている割礼とは異なる「キリストの割礼」という言葉を用いて、私たちの救い、私たちが神の民として新しく生まれたという立場、恵みを語っている。
ユダヤ人の父であるアブラハムが選ばれ、神の民としてのしるしである割礼を受けたのは、彼が信仰によって義とされた結果であって、それはユダヤ人に対してだけではなく、異邦人である私たちに対しても同じなのである、つまり、信仰によって義とされ、割礼を受け、神の民とされるのは、ユダヤ人であっても異邦人であっても、神の恵みによって、信仰により、そうなると言うのである。
ローマ4:9c~12:「私たちは、『アブラハムには、その信仰が義とみなされた。』と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。」
※これが、「キリスト信仰とは何であるか」を示す、キリスト信仰の中心にある「キリストの割礼」です。キリストを信じる者は、「キリストの割礼」、即ち、キリストも肉の衣を脱ぎ捨てて十字架に付き、そして私たちを義とするためによみがえられたという、キリストの十字架と復活を信じる信仰により、心に割礼を受け、肉の衣を脱ぎ捨てて、日々新たに生きて行く。これが「キリストの割礼」による「キリスト信仰」の第二の核心のポイントです。
V11~12:「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」
(3)「完全なる救い」であること
V13b~V15:「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
前の個所にあったように、私たちが「キリストの割礼」を受けて罪赦され、日々新たにされて生かされているのは、私たちの神に対する債務証書が無効にされたからだと言う。債務とは私たちの神に対する罪のこと。言わば、借金です。神はその借金の重荷を私たちの肩から外し、御子イエス・キリストの肩に負わせ、その借金を、尊い御子イエス様の血潮の代価によって完全に支払ってくださったのである。それが、V13b~V14で言っていることです。
そして、ただ債務を帳消しにしてくださっただけではなく、今度は、債務者から債権者である神の子にしてくださって、私たちに債務の重荷を背負わせ、苦しめて来た私たちの敵である悪魔と悪魔の手下たちの武装を解除し、晒(さら)し者にして、捕虜として私たちの救いの凱旋行列に加えてくださったと言う。これが、V15で言っていることです。
V15:「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
※これが、キリスト信仰による救いの3番目の核心です。私たちはもはや悪魔と罪の奴隷ではなく、神の子です。悪魔と悪霊たち、また罪に対する勝利者です。アーメン!
Ⅰヨハネ3:7~9:「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」
このように告白して、確信をもって歩もう!
【結論】
宣言:「私たちはもはや悪魔の奴隷ではない。私たちは神の子です。私たちは悪魔と悪霊ども、そして罪の力に打つ勝った。だからそのように歩む。悪魔のしわざを打ちこわす!」
ハレルヤ!アーメン!
―祈り―
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