【聖書個所】
ヨシュア20:1~4
【タイトル】
ヨシュア記(26)「私たちの逃れの町③」
【序論】
今日もこのヨシュア20章の箇所から、「私たちの逃れの町」と題して、3つ目のメッセージを語る。これまでのメッセージの中では、「逃れの町」とは、私たちにとって何であると語られていたか?―先ず、それは「私たちに罪の赦しを与えるイエス様の十字架である」ということ。二つ目は、「その罪の赦しは完全である」ということ。そして、今日のメッセージは、結論から言うと、それは、私たちにとって「逃れの町」とは、「私たち、この教会である」ということ。それが今日のメッセージのテーマです。
V3:「…。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者(=裁きをする者)から逃れる場所となる。」とある通り、「逃れの町」は、私たちにとって、罪の赦しを受け、罪から来る裁きを免れる場所であると同時に、そこは、その罪の赦しを受けた人々、それは私たちのことであるが、「罪の赦しを受けた人々が集まる場所」、即ち「教会」でもあるということです。
今日はこのことをテーマにして、2つのポイントでメッセージを取り次ぐ。
【本論】
一つ目は、どんな人でも罪を犯す者。だから、
(1)(「逃れの町」、「教会」は)どんな人でも受け入れられる場所、受け入れられなければならない場所である。
V4:「人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。」
当時、罪を犯した者が「これこれこういうわけで人を殺めてしまった。」と、故意ではなくて殺人の罪を犯してしまったことを、その町の門の入口で立って陳述すれば、その人は、その逃れの町の中に受け入れられて、そこに居ることの出来る場所が与えられ、その町の人々と共に住むことが出来た。これが逃れの町です。
そして、教会もそのような所です。教会の玄関の入口で、「これこれこういう罪を犯した。だから教会に入れて下さい。」と言わなくても、聖書的に言うならば、どんな人でも、教会に受け入れられる人、受け入れられなければならない人です。何故なら、すべての人は罪を犯すからです。勿論、実際にはいろいろなケースがあって、現実的に見たら、それが出来ないこともあるだろう。氏素性の分からない人を自分たちの家に迎え入れることが出来ないように、教会にも受け入れることが出来ない場合もあるだろう。
22歳から23歳の間の約1年間、アメリカに居た時、最後の1か月間をグレイハウンドで旅をした。そしてデンバーで、宿を求めてフランシスコ会の教会を訪ねたが、救世軍を紹介されて救世軍に行くことになった。その司祭からすれば、みすぼらしい恰好の、どこの馬の骨かも分からない私を、教会の中に入れることなど出来なかったのだろう。「レ・ミゼラブル」の中に出て来る、監獄を出たばかりのジャン・バルジャンを家の中に迎え、それだけではなく、食器を盗んで行ったジャン・バルジャンの罪を赦すような慈悲深いミリエル司教のようにすることは出来なかったのだろう。仕方のないこと。そして現実に、もしそのようなことがあるならば、それによって、予期せぬいろいろなことが起こることもある。
家内の母教会の小樽の教会で起きた出来事。まだ独身であった牧師が、会堂でホームレスの人と共同生活を始めたが、4万円の書籍代を盗まれてしまったという出来事。
共同生活まではしたことはないが、吉川の教会で、ある兄弟の紹介により、その兄弟が病院で出会ったある一人の人が行くところがないということで、一泊、吉川の教会で共に過ごした。そしてその後、その方は三郷市の生保に預かっている人だと分かり、一緒に三郷市役所まで行って、生活の場所などの相談をし、詳しい経過は忘れてしまったが、最終的には越谷市の生保に預かって、蒲生駅近くのアパートに住まいを得て暮らしていた。礼拝にも何度か出席されていたが、最後は残念なことに、アルコール依存に勝つことが出来なくて、命を落としてしまわれた。また、何回か、持ち合わせのお金がないということで、電話のあった人と会い、そしてお金を渡すとか…。教会にはいろいろなことがある。
※そのように、逃れの町が罪びとを受け入れたように、私たち、教会という所も、どんな人であっても分け隔てなく、「受け入れられる所」でなければならないのである。
もし私たちがイエス様を信じ、イエス様に従って行きたいと願うのであれば、誰と一緒に食事をするか、誰を家に招くかということで差別をしていたパリサイ人、律法学者たちに対してイエス様が語ったみことばに耳を留めたいと思う。イエス様は何と言ったのか!
マタイ9:10~13:「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」」
そう!私たちは皆、義人とされてはいるが、罪を犯す者である。だから、私たちも分け隔てなく、どんな人であっても、教会に受け入れたいと思う。現実にはいろいろな問題があるかもしれないが、しかし、みことばはそのように言うのである。次に、
(2)(「逃れの町」、「教会」は)どんな人とも共に住む所。
V4:「…。彼は、彼らとともに住む。」
立場を代えて言うならば、「彼」とは「罪が赦された私たち、また教会」のことで、「彼ら」とは、その「町の人」ということ。「この世の人」のことです。
※教会は、この世と離れては存在しない。むしろ教会は、この世の中に存在するもの、この世に存在して、「地の塩、世の光」とされたものです。教会は、この世に存在して、決して隠れることの出来ないものなのである。マタイ5:14:「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」と言われているとおりです。
※そして教会は、この世の中にあってただ存在しているだけでなく、人々の所に出て行って、そして、光であるキリストを証しする者でもある。
マルコ5:19~20:「しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。』そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」
ゲラサ人の地で、悪霊に憑かれて墓場に住んでいた男の解放後、イエス様は彼を弟子として、他の弟子のように手元に置かないで、家族の元、この世に送ったのである。
使徒1:8:「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
※2000年前に聖霊が降り、教会が誕生した。教会は一番目の意味の、ただ「罪赦された者の集まり」というだけでなく、二番目の意味のように、「キリストを証しする者」でもあるのです。
※私たちの中の特別な人だけがキリストの証人ではなく、皆がキリストの証人です。そしてその働きは決して難しいものではない。神学校に行って神学を学ばなくても、教理の本を読んで三位一体について上手に説明出来なくても、私たちは、「キリストが自分に何をなされたのか」という、キリストのみわざを証しするだけで良いのである。
【結論】
逃れの町、教会は、こういう二つの意味で、この世に置かれている。だから、私たちは、①どんな人であっても受け入れ、②どこにあっても、どこに行ってもキリストを証ししよう。
来年の計画を今立てているが、私たちの場合には、会堂があっての教会ではないので、尚のこと、私たちはそれぞれ、この世の中で、そこに置かれて、そして出て行って、あの悪霊から解放された男のように、家族に、人々に罪の赦しを与えることの出来る、福音を伝える「逃れの町」、「教会」となろう!キリストの証人となろう!
※主がそのように私たち一人一人を用いて下さるように!
―祈り―
Comments