【聖書個所】
ヨシュア20:1~6
【タイトル】
ヨシュア記(25)「私たちの逃れの町②」
【前置】
今日またヨシュア記を読むが、前回は同じ聖書個所20:1~9から、「私たちの逃れの町」というタイトルで、私たちにとっての「逃れの町」の持つ意味を、聖書から見た。それはまさに、私たちにとっての、イエス様による十字架の贖いそのものであるということであった。
今日は、同じ個所20:1~6から、同じタイトルで、その「逃れの町」の持つ意味を、さらに深めて見たいと思う。
【聖書箇所】
ヨシュア20:1~6:
―祈り―
【序論】
神様はイスラエルの民に、そして私たちに「逃れの町」を備えてくださった。それは、私たちは故意であろうと故意でなかろうと、罪を犯す者、罪を犯してしまう者だからです。それが、私たちに「逃れの町」が設けられた理由である。
前回見たように、私たちは、パウロではないが、本当にすぐに罪を犯してしまう者。したくないことを行ない、してはならないこと、しない方がよいことをすぐに行なってしまうような者、また、した方がよいことをしない、ねばならないことが出来ない、本当にそのような者です。しかし幸いなことに、パウロが言うように、そのような私たちのために、御子イエス・キリストが十字架の上で、私たちの、そんな罪のために、御自分の御体をもって贖いを成し遂げてくださった。だから、パウロが言うように、主に感謝をささげよう!
ローマ7:24~25a:「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」
「この死の、からだ」とは、「死んだ体」ということではなく、「死んだような体」、「自分のからだでありながら、自分の思う通りに動かないからだ」ということです。パウロが言うように、「してはけないことをやってしまい、したいこと、しなければならないことはやらない」という「機能不全のからだ、どうにもならないからだ」ということです。英語の聖書では、「Shacle of the body of the death」という言葉が使われている。「Shackel」とは手枷足枷のこと。抄訳聖書では、「拘束」と訳されているが、「自分を縛っている、罪の力」のこと。また、手枷足枷だけではなく、ヤコブの手紙で言うならば、「少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちた」舌、そんな舌のある、「この死の、からだ」ということである。
ヤコブ3:2~8:「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」
本当に私たちはこのような者です。しかし私たちは、このような「死のからだ」から救い出され、神の子とされ、神に仕える者とされたのである。何と感謝なことだろう。だから、主にすべてをささげて従おう。仕えて行こう。ハレルヤ!
そういうことで、今日の本文に入るが、本当に「逃れの町」=「主イエス様の十字架の贖いによる救い」というのは、私たちにとって、感謝に満ちた素晴らしいものです。どれほど素晴らしいものか、今日はその、私たちにとっての「逃れの町」の素晴らしさ、恵みの豊かさ、深さをもっと探求して行きたい。
【本論】
「逃れの町」は、神様が罪を犯した人、私たちを、一人として滅びることがないように、すべての人を、一人でも多くの人を救おうと望んでいる、ということを現わすしるしとしての町。一言でまとめるのは難しいが、まとめるならば、「すべての人を救おうとする逃れの町、救いの町」である。
(1)すべての人を救おうとする逃れの町
逃れの町は今まで見て来たように、ヨルダン川の東側にも西側にも、イスラエル人たちが相続地として分割された地域のそれぞれのところに、3つずつ、計6個設けられていたが、具体的にはそれは、
ヨシュア20:7~8:「それで彼らは、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシュと、エフライムの山地にあるシェケムと、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとを聖別した。20:8 エリコのあたりのヨルダン川の向こう側、東のほうでは、ルベン部族から、高地の荒野にあるベツェルを、ガド部族から、ギルアデのラモテを、マナセ部族から、バシャンのゴランをこれに当てた。」
逃れの町は、私たちの町中に見かける、子どもたちの逃れる場所として置かれている「こども110番の家」のように数は多くはないが、ヨルダン川の両側に均等に置かれ、註解書を見ると、その町に至る道には、途中に川があれば必ず橋が掛けられ、障害物があれば取り除かれ、逃れる人が迷うことのないよう、逃れの町への道しるべが置かれていたという。あたかも、ヨハネ14:6:「…。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」のように。
また、イスラエル人だけでなく、在留異国人に対しても設けられていた。(V9)それだけ、神様は一人でも多くの人を救おうとされているということなのである。
Ⅱペテロ3:9:「主は、…、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあるように、
※神様は、すべての人が救い「逃れの町」に入ることが出来るようにと、望んでいる。
(2)神の正しい裁きのなされる逃れの町
逃れの町に逃げ込んだ人に対しては、次のように言われている。
V6:「その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」
逃れの町は、そこに逃げ込んだ人にとって、故意ではなかったからと言って、門前で陳述しただけで、裁きも受けずに、無条件に報復者による裁き(報復)を免れたわけではなかった。彼らも裁きは受けなければならなかった。その裁きに関しては、次のように記されている。
民数記35:16~24:「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。」
故意かそうでないかを裁定し、それによって裁きが決まった。その時の裁定の根拠は、何か?―それは、人の証言です。その証言について、次のように記されている。
民数記35:30:「もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。」
では、どうであれば良かったか?
申命記19:15:「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」
それは、過ちを防ぐためであったが、しかし、二人でも三人でも、所詮、それは人の証言である。完全なものではない。だから、イエス様が裁かれるとき、多くの証言があったというが、イエス様を罪に定めることは出来なかったとあるくらいだから。(マルコ14:56、59)
最後には、誤りのない正しい裁きは、神以外にはない。神様がご自身の御子イエス・キリストを私たちの代わりに罪ある者とされ、十字架の上で捨てられ、そして、罪を正しく裁かれたのである。(※「エリ・エリ・レマサバクタニ」(マタイ27:46))だから、神様の救い(イエス様による救い)は、そのように厳粛で、完全なものなのである。それとの関連が次。
(3)完全な救いが保証された逃れの町
V6:「その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」
もしそうせずに、町を出て、報復する者に出会って報復されても、報復した者に対しては咎めはなかった。それは認められていたからである。(民数記35:26~27)
どうしてそうなのか?―ここに、イエス様の大祭司としての予型がある。
へブル9:11~12:「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
逃げ込んだ人は、大祭司が生きていて、その町にいる間は、報復という裁きを受けることはなかった。そして、大祭司が死ねば、その後は、彼は自由に町を出て、そして、報復者から報復されることもなく、(もしそういうことがあれば、今度はその報復者が故意に、理由もなくその人を殺したことにより、その人が裁きを受ける。)自分の町に戻り、自分の家に戻って、無罪放免された者として生きて行くことが出来た。
※大祭司の存命によったのである。
V6b:「…。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」
※これが、逃れの町がもたらす完全な救い、イエス様がもたらす完全な贖いである。
コロサイ2:12~14:「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」
Ⅱコリント5:17:「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
【結論】
※このように、誰でもが逃れの町に逃れるなら、また、イエス・キリストの十字架の下に行くのなら、その人はこのように、完全にすべての罪が赦されて、新しくされ、罪無いものとして、放免される、自由にされるのである。何という幸いなことだろう。
ー祈りー
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