【聖書個所】
ヨシュア14:1~5
【タイトル】
ヨシュア記(22)「相続地の割当ー相続分配で大切なことー」
【前置】
今日は1カ月ぶりにヨシュア記に戻る。前回は13章1節から、「残された占領すべき地③」として、カナンの地はヨシュアたちイスラエルの民にとって「相続の地」であるということを学んだ。彼らはいよいよそのカナンの地を12部族に割当てて行くわけだが、その割当については、13章7節~33節で、モアブの地のルベン族、ガド族、マナセの半部族に対する割当て、そして、14章1節~22節の終わりまでで、残りの9部族とマナセの半部族に対するカナンの地での割当てのことが記してある。それらの記録の多くは、地名を上げながらの淡々とした記録なので、前にも伝えていたように、メッセージとして取り上げて伝えることが難しいので、それらの箇所は省き、いくつかの特徴的なこと、私たちの信仰生活に関連して重要だと思われる点だけを取り上げて、みことばを取り次ぎたいと思う。
そういうわけで、今日は14章1節~5節のところから、「相続の地」であるカナンの地を、ルベン族とガド族、マナセの半部族を除いた9部族とマナセの半部族に割り当てるに当たり、特徴的だったこと、重要だったことに目を留め、メッセージを語りたい。私たちの実際の生活でも、すべての人に当て嵌まるわけではないが、相続を受ける、或いは相続してもらうというようなことがある。そんな時、どういうことを大切にして行ったら良いのかということも今日の箇所から学ぶことが出来ると思う。
【本論】
Ⅴ1~Ⅴ2:「イスラエル人がカナンの地で相続地の割り当てをした地は次のとおりである。その地を祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、イスラエル人の部族の一族のかしらたちが、彼らに割り当て、14:2【主】がモーセを通して命じたとおりに、九部族と半部族とにくじで相続地を割り当てた。」
先ずこの箇所から、相続の地を割り当てるに当たり、彼らが行った特徴的なこと、重要なことの一つ目のことが記されている。それは、「【主】がモーセを通して命じたとおりに」(Ⅴ2)ということである。
(1)主がモーセを通して命じたとおり
これは何のことか?―それは、モーセが主の預言者として、主の語られていることを代弁する立場、器であるので、それは直接的には、「主が命じられた通りに」ということである。これは、私たち信仰者にとり、何よりも基本的なことである。相続に関することだけでなく、何をするにも、「主が命じられた通りに、主の言われる通りに、主のみこころの通りに行う、生きる」ということは、何にも増して、私たち信仰者にとってのボトムライン、基本です。
主は弟子たちに、また私たちに、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)と言われた。イエス様について行くこと、イエス様に従うことは、私たちイエス様を信じる信仰者の基本なのである。だから、私たちは何をするにも、主が命じられた通りに、主が言われる通りに、また主のみこころの通りに行おう、生きて行こう!
次に重要な点は、「主がモーセを通して命じたとおりに、9部族と半部族とにくじで相続地を割り当てた。」ということ。
(2)「くじ」で相続地を割り当てた。
神を信じる信仰者が「くじ」で何かを決めるということ、占いをするかのように「くじ」でそれを決めるということに対して、「何か変だなー、オカルト的?、偶像礼拝的だなー」と思われるかもしれないが、しかし、ここでの重要な点は、何のために「くじ」を使うかというである。聖書は、「くじ」について、次のように言っている。
箴言18:18:「くじは争いをやめさせ、強い者の間を解決する。」
私たちはこの世の中で揉め事があった時、或いは揉め事になりそうな時、或いは、それほど重要なことでなくても、何かを決める時、皆が文句なく納得するようにと、「じゃんけん」で決めたり、「くじ」を引いて決めたりする。「くじ」というものには、不思議とそういう力がある。そして、特に神を信じる信仰者である私たちにとっては、「くじ」というものは、ただ争いをやめさせるためだけでなく、神意、神のみこころを知るためのことでもあるのである。
箴言16:33:「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、【主】から来る。」
実際に、イスラエルの民は、罪の贖いを完全なものとするためのアザゼルの山羊を選ぶときにも、「くじ」を引いた。
レビ16:6~10:「アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。二頭のやぎを取り、それを【主】の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは【主】のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、【主】のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、【主】の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。」
また、ダビデの時代、神殿の奉仕をする祭司の組分けの時にも「くじ」が用いられた。
Ⅰ歴代誌24:4~5:「エルアザルの子孫のほうが、イタマルの子孫よりも一族のかしらが多かったので、エルアザルの子孫は、父祖の家のかしらごとに十六組に、イタマルの子孫は、父祖の家ごとに八組に分けられた。24:5彼らはくじを引いて互いにそれぞれの組に分かれた。聖所の組のつかさたち、神の組のつかさたちは、エルアザルの子孫の中にも、イタマルの子孫の中にもいたからである。」
新約聖書の方でも、祭司の働きの組分けの時に「くじ」が引かれる場面があった。バプテスマのヨハネの父であるザカリヤの祭司としての働きを決める時のことである。
ルカ1:9:「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、1:9祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。」
神殿で奉仕をする祭司たちが、どの奉仕に就くかを決めるために、習慣として「くじ」を引いて、それを決めていたということも分かる。
また、私たちにとって一番馴染みのある「くじ」は、イスカリオテのユダのあとを誰が継ぐかと言う時に用いられた「くじ」ではないか。12使徒の欠けを埋めるため、「くじ」によってイエス様の復活の証人の中から、マッテヤが選ばれた(使徒1:26)。
このように、いくつかの場面で、神のみこころを知るために「くじ」が用いられている。それは、「くじ」そのものがどうこうということでなく、それにより、争いを起こさない方法で神のみこころを知り、それに従うためだからである。
※「くじ」は、時に賢い、神のみこころを知るための、知恵ある手段と言えるだろう。
最後に、相続をするにあたり、主は私たちに何を求めているだろう?―それに当たっては、「主がモーセに命じたとおりに」とあるように、実際に主がモーセに、この相続に関して命じていた民数記の箇所に目を留めよう。
民数記26:52~56:「【主】はモーセに告げて仰せられた。『この人々に、その地は、名の数にしたがって、相続地として割り当てられなければならない。大きい部族にはその相続地を多くし、小さい部族にはその相続地を少なくしなければならない。おのおの登録された者に応じて、その相続地は与えられなければならない。ただし、その地はくじで割り当て、彼らの父祖の部族の名にしたがって、受け継がなければならない。その相続地はくじによって、大部族と小部族の間で割り当てられなければならない。』」
ここでも「くじ」のことが語られているが、そのことと共に語られているのは、部族の大きさによって相続地の割当、分配は行なわれなければならなかった、ということである。つまり;
(3)割当、分配は公平に行われなければならない。
それは勿論、「くじ」による割当によって争いを防ぐためであると同時に、公平さを実現するためでもあるが、何よりも、神がご自身の民の相続に当たって公平さを求めるのは、神がどんな部族であっても、誰であっても、変わることなく等しく愛しているということなのである。そのことが顕著に表れているのが、放蕩息子の話である。
放蕩三昧で帰って来た弟息子を喜んで迎え、そして、御馳走、着るもの、指輪など、身に着けるすべての物を与え、それも最上のものを与えているのを知って、そのような父に対して不平と不満を漏らした兄息子に対して語った父親の言葉に着目しよう。
ルカ15:31~32:「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
※このように、神様は私たちに対し、分け隔てない愛を持って愛しておられるのである。
【結論】
相続、神の恵みによる相続、神の子としての立場を受けるに当たり、私たちは、神がそう命じている。そう望んでいる。争いもなく、分け隔てなく、それを相続すること、受けることを望んでいる。そのことを、今日もう一度確認し、御子イエス・キリストを送って下さったほどに愛しておられることを味わい、感謝をもって、神に従って行こう。
―祈り―
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