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2022.10.30 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【序論】

 いよいよあと数回でヨシュア記の学びは終わるが、今年の1月から始まって、よくここまで来たものだと思う。今日からは、12部族への相続地の割り当てが終わった後の事柄について見て行くが、その割り当ての終わりについては、19:51にこう記されたあった。見ておこう。

ヨシュア19:51:「これらは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、およびイスラエル人の部族の一族のかしらたちが、シロにおいて会見の天幕の入口、【主】の前で、くじによって割り当てた相続地であった。こうして彼らは、この地の割り当てを終わった。」

 彼らは、くじによって割当地を決め、そして、その割当は終わったのである。では、その後には何があったのだろうか?―いくつかのことがあるが、今日は、先ほど読んだ個所に出て来た「逃れの町」についてメッセージを取り次ぎたい。彼らは相続地の割り当てが終わって後、彼らの割当地に「逃れの町」という場所を設けた。何のためか?―そもそも「逃れの町」とはどんな町だったのか?―そして、その町の持つ、今日的な意味は何か?どのようなメッセージがこの町にはあるのか、今日はそのことを一緒に見て行こう。

【本論】

先ず、「逃れの町」とはどういう町か?

(1)逃れの町とは?

V2~6:「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。たとい、血の復讐をする者がその者を追って来ても、殺人者をその手に渡してはならない。彼は知らずに隣人を打ち殺したのであって、以前からその人を憎んでいたのではないからである。その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」

 要約すると、「誰かが、故意にではなく、誤って人の命を取ってしまった場合、つまり、結果的に、殺すつもりではなかったけれども、人が死んでしまった場合、その殺してしまった人は、「逃れの町」に逃れれば、血の復讐をする者、つまり報復する者の報復を免れることができる場所、町」のことを言う。

 聖書はそのことについて、「わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた」(V2)とあるように、「逃れの町」についてモーセに告げられていた。それは、最初に最初に「逃れの町」について記述された個所です。


出エジプト21:12~13:「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。」

 またこのことは、民数記35:9~15にもあった。

民数記35:9~15:「【主】はモーセに告げて仰せられた。 『イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地に入るとき、あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。ヨルダンのこちら側に三つの町を与え、カナンの地に三つの町を与えて、あなたがたののがれの町としなければならない。これらの六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在住異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。』」

 そして、具体的な場所の名前が、今日の個所のV7~V8に記されていた。

ヨシュア21:7~8:「それで彼らは、ナフタリの山地にあるガリラヤのケデシュと、エフライムの山地にあるシェケムと、ユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとを聖別した。エリコのあたりのヨルダン川の向こう側、東のほうでは、ルベン部族から、高地の荒野にあるベツェルを、ガド部族から、ギルアデのラモテを、マナセ部族から、バシャンのゴランをこれに当てた。」

 このように、先ず「逃れの町」とはどういう町で、どこに設けられたかについて聖書から見た。では次に、何故「逃れの町」は設けられたのか、その理由について、また、それが今日の私たちにどのような意味を持っているのか、について考えてみよう。

(2)設けられた理由と今日的意味

 それは既に語られていたように、故意にではなく、誤って人を殺(あや)めてしまった人が殺されないように、救済の場所としての「逃れの町」が設けられたのである。

 イスラエルでは、先ほど読んだ出エジプト21:12にあったように、十戒の第6戒に基づいて、「人のいのちを取った人は、殺されなければならない」という律法の定めがあった。

出エジプト21:12:「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」

 そして、その十戒という憲法に基づいた刑法のように、「目には目で、歯には歯で」という同体復讐法と呼ばれる律法で、殺人の場合の償いについて、レビ記に記された。

レビ記24:19~21:「もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。24:21 動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。」

 どうして、そのような同体復讐法というような裁きを定めたのか?―それは、

創世記9:1~6:「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、─地の上を動くすべてのもの─それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。』」

レビ17:10~11:「また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」

 誰であっても、どんな人であっても、人は神のかたちに造られた存在であり、そのいのちはその血にある。だから、その血を流した者は、自らの血で償わなければならないと言うのである。それが、同体復讐法という神の厳密な律法である。聖書はそのことを明確に記している。

 しかし神は、そこに一つだけ、救いの道を、逃れの道を設けられた。それが「逃れの町」であった。人が故意にではなく、誤って殺めてしまった場合は、赦しの道が設けられたのである。その理由は、際限のない復讐に歯止めを掛けるためである。でなければ、先ほど、「すべての人のいのちは神のものである」とあったように、神のものである人の血が無暗(むやみ)に流され、人の命が無駄に失われてしまうからである。神様は、それほどご自分のものである人のいのちを惜しまれる。大切にされるのである。

 またもう一つ、神様は私たちがいかに愚かで、どうしようもない者、罪深い者であるのを知っているからである。パウロが、「私には、自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思っていることをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」(ローマ7:15)と言うように、自分で自分のことが分からない、自分で自分のことをコントロールすることが出来ない者であること、そのように、人は罪のために無力な者になってしまっているということを知っているからである。だから、故意でなく、人を殺めた者には「逃れの町」を定められたのである。

※そうです!これこそ、私たちにとっての救い、「逃れの町」です。イエス様は、私たちの贖いのための十字架の上で何と言われただろうか?―「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカ23:34)と祈られた。そうです!私たちはそのようなものです。だから、故意ではなく、知らずに、分からずに、誤って人を殺めてしまった罪の場合、またそれだけではなく、故意に罪を犯したにしても、そのように私たちは自分に対して、罪に対して何の力もなく、罪を犯してしまう者なので、私たちには、逃れの町=イエス様による十字架の贖いによる罪の赦しが必要であり、逃れの町=イエス様の十字架による贖いの中に入ること(信じること)が出来るならば、完全なる罪の赦しを受けることが出来るのです。パウロが言うように。

ローマ7:24~8:1:「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

【結論】

 これが、「逃れの町」が設けられた理由であり、今日の私たちに対する今日的なメッセージである。この神の憐れみと恵みに満ちた御救いのみわざ、みこころに感謝しよう!

―祈り―

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