【聖書個所】
ヨハネ21:1~6
【タイトル】
船の右側ー神と共に歩み道ー
【導入】
質問:皆さんは、自分で自分のことを、「新しいことをすることに抵抗を覚える方」と思うか?つまり、「いつもやっていることは、いつも通りやりたい方で、余り変えたくないと思う方」か、それとも、「同じことを繰り返すよりも、新しいことの方をしてみたいと思う方」か?―どちらか?―私はどちらかと言うと、同じことを繰り返すより、新しいことの方をやってみたいと思う方です。
ある時、家内と一緒に近くの川の土手の一本道をずーっと歩き、20分ほどして帰ろうとした時、来た道をそのまま戻りたくなかったので、土手を降りる階段に気づき、その階段を下りて下道から帰ろうと家内に言った。そして、階段を降りようとした時、その階段が思った以上に急勾配で、それも段の幅が狭く、思わず踏み外しそうになり、「危ない!」と思って、咄嗟に横跳びして、横の土手をそのまま降り走って、下の道路に飛び降りた。しかし、目の前に赤い車が駐車していたので、そのままではぶつかって、車を凹ませてしまうか、私が怪我をすると思い、道路に飛び降りた拍子に、そのまま道路に転がり、何とか車にぶつからずに難を避けた。幸いに少し手に擦り傷が出来た程度で助かった。
余り褒められた例ではなかったが、私たちの日常生活の中で、何か事を行う時、いつもとは違うことをしようとすると、あのように予測出来ないことが起こる。―今日これから読む聖書箇所にも、そのようにいつもとは違うことを行なって、予測できないことを体験した人たちの話が出て来る。どんなことが起きたのか?一緒に見て行こう。
【序論】
Ⅴ1:「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。」
この個所はご存じのように、イエス様が復活された後の出来事のことです。この時イエス様と弟子たちは、テベリヤ湖(ガリラヤ湖)のあるガリラヤにいた。ヨハネの福音書ではそのことは明確に記していないが、マタイ、マルコの福音書では、イエス様は復活の後、弟子たちとガリラヤで会うということが記されている。(参照:マタイ26:31、28:7、マルコ14:28、16:7)だから弟子たちはイエス様の復活の後、イエス様に会うためにガリラヤに行った。その中で起きたことが今日の聖書箇所の中のことである。
彼らがガリラヤに行ってどの位の日数が経ったか分からないが、ある時ペテロが、彼はイエス様の弟子になる前はガリラヤ湖の漁師だったので、Ⅴ3:「私は漁に行く。」と言い、そして、他の弟子たちもペテロの言葉に従って小舟に乗り込んだ。この「私は漁に行く。」というペテロの言った言葉は、もうペテロは、イエス様が死んでしまったので、イエス様の弟子として生きるのを辞め、昔の仕事の漁師に戻るということを言っているのだ、と言う人もいるが、これはそうではなく、ペテロは、イエス様の言葉に従ってガリラヤに行ったということ、そしてこの後イエス様が言った「さあ来て、朝の食事をしなさい。」(Ⅴ12)と言う言葉から分かるように、決して弟子として生きることを諦めてしまったわけではなく、ただ翌朝の食べ物が無くなってしまったので、食べるための魚を取りに行ったというように理解した方が自然である。いずれにしても、そのようにして彼らは漁に出て行ったが、Ⅴ3:「しかし、その夜は何もとれなかった。」とあるように、一晩中網を打っても、魚一匹とることが出来なかったようである。そして、彼らは夜明けを迎えた。すると、彼らにはイエス様だと分からなかったが、イエス様が岸辺に立って、彼らにこう言われたのである。
Ⅴ5:「…。『子どもたちよ。食べる物がありませんね。』」と。すると彼らは、Ⅴ5:「『はい。ありません。』」と答えたので、イエス様は彼らに、Ⅴ6:「『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』」と言われた。そして、彼らはその通りにすると、下した網を引き揚げることが出来ないほど、沢山の魚が網にかかったと言う。
この出来事は、神様の驚くべきみわざ、奇跡、そして、その神様のみわざの体験のことを指しているが、どうしてこのような奇跡が、みわざが起きたのか、そして、彼らはそれを体験することが出来たのか、その秘訣について語っている。そしてまたこのことは、私たち信仰者にとっても、このように神の為される驚くべきみわざ、奇跡のみわざを見ること、また体験することの大切さをも教えている。そしてそれは、ただ単にみわざを見る、みわざを体験するというだけではなく、それを為される神様御自身を知り、また体験するという神体験、信仰体験でもあるのである。
皆さんは、神の御業を見たいか?奇跡に預かりたいか?神体験をしたいか?神様をもっと知りたいか?―では、どうしたら良いだろう。その秘訣は何だろう?ーそれは、夜通し働いても、何もとることが出来なかった弟子たちに語られたイエス様の言葉:「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」にある。―この言葉の持っている意味、この言葉が私たちに教えようとしていること、特に、「舟の右側」が指しているもの、教えていることにある。それは何だろう?
今日は、このみことばを中心にメッセージを取り次ぐ。
【本論】
いつものことだが、3つの重要なポイントがある。「舟の右側」とは;
(1)人間の限界、弱さ、無力さ、「私には何もありません」ということを知る所
ある説教者は、「舟の右側」とは、「人間的考え、習慣、常識、この世の知恵、力の働く所」ではなく、「神の力、神の知恵、神が完全に支配している所」だと言う。勿論それは比喩だが。だから、右側に網をおろせば、多くの魚が獲れる、奇跡が起きるのだと言う。何故なら、イスラエルでは、漁師は漁をする時は舟の左側に網を下ろすのであって、右側には下ろさないからだと言うわけです。しかし、真偽のほどは分からない。
重要なことは、舟の右側か左側かがではなく、右側であっても、左側であっても、この時、彼らは人間の限界に達していた、弱さ、力の欠けている状態に達していて、それを体験していたということなのである。イエス様が、「舟の右側に網をおろしなさい。」というのは「そのことを本当に知りなさい。」ということなのである。それが、夜を通して働いても何の収穫もなく、Ⅴ5:「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」のイエス様の言葉と、その後のペテロたちの「はい、ありません。」という答えに表れているのである。
私たちは、自分たちの力の限界、知恵の限界、持ち物の限界に達しないと、なかなか助けを求めないものです。私が他にミニストリーをしている依存症回復の場合もそこに始まりの鍵がある。人は底をついて、初めて目が覚める。心底から助けを求めるようになるということである。罪の赦しを始めとして、人はなかなか神を求めない。しかし、限界に達すれば、底つきをすれば神を求めるというのである。
同様に、信仰を持った私たちとしても、もし神の奇跡、神のみわざ、それを知りたい、体験したい、見たいということであれば、先ず、私たちは無力です。何も出来ないと言うことを認めなければならない。自分たちだけで何とかなる、と思っているうちは、神のみわざは現れない、見ることは出来ないのです。死んだラザロのよみがえり(ヨハネ11章)や、つんぼとおしの霊に長い間支配されていた子供の癒しの奇跡(マルコ9:14~29)は、その良い例である。
マルコ9:22~24:「『この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。』するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』するとすぐに、その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください。』」
※これが必要なのである。次に、「舟の右側」とは;
(2)神の無限の知恵と力、愛、憐れみ、恵みを知る所
(1)と対極にある。しかし、言っていることは同じです。信仰の世界では、肉の力、人間的な知恵と力、この世の知恵と力が無くなれば無くなるほど、神の力、神の知恵と力が大きくなる。これは大切な霊的原則である。
ヨハネ3:30:「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
マタイ16:24~25:「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
「自分を捨てる」ということは、仏教のように「自分を無とする」ということではない。人はそんなことは出来ない。自我があって生きているのだから。そうではなく、それは、「自分に頼らずに、神に全面的に頼る」ということである。
パウロは、この霊的原則をよく理解して、次のように言った。
Ⅱコリント12:9:「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
しかし、人は普通、弱さを誇ることは出来ないもの。むしろ弱さを隠し、強い者であるかのように覆いを作り、「私は大丈夫。私は強い。」というような振りをする。その囲いの中を自分の安全地帯にして、そこから出ようとはしない。不安、恐れがあるからだろう。しかし聖書は、そのように自分の力に頼ることをせず、安全地帯を出て、神に頼り、神を信じることを教える。そこに本当の平安と救いがあるからです。
箴言3:4~10:「神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。【主】を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。あなたの財産とすべての収穫の初物で、【主】をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」
※そこが、「舟の右側」です。安全地帯を出て、舟の右側に網を下ろそう。そこに豊かな平安と祝福がある。
【結論】
そして3番目のポイント。そしてそれが今日の結論。
(3)私たちの信仰の世界―神と共に歩み道―
今、マタイ16:24~25を見たように、また、Ⅱコリント12:9が語るように、また箴言3:4~10が教えるように、神がおられる舟の右側は恵みと憐れみ、富と健康、知恵と力、すべてに満ちておられる方であり、満ちている所です。だから、この方を頼り、この方にあって、この方によって、この方のために生きて行こう。神と共に歩んで行こう。
イエス様は、ヨハネ16:33:「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と言われた。この「世に勝利されたお方」イエス様は、私たちの共に歩まれ、何があってもいつも守り、助け、強め、励まし、支えて下さるお方、「道であり、真理であり、いのちであるお方」(ヨハネ14:6)、イエス様は、私たちの試練の時の「脱出の道」なるお方なのである。
Ⅰコリント10:13:「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
このお方を、どんな時も信頼して歩もう。このお方が私たちの舟の右側です。
―祈り―
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