【聖書個所】
コロサイ2:6~7
【タイトル】
コロサイ書(10)「キリストにあって歩みなさい」
【序論】
パウロはコロサイの教会のクリスチャンに、「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから(信じたのだから)」、「彼にあって(キリスト・イエスにあって)歩みなさい。」と命じている。「このように」とは、前回学んだように、いろいろな「まことしやかな議論」(Ⅴ4)や教えが蔓延(はびこ)っている中で、「知恵と知識との宝がすべて隠されている」(Ⅴ3)キリストを信じ、キリストによって教えられているように互いに愛し合い、励まし合い、しっかりと結びつき合って、キリストを建て上げているということが「このように」ということです。パウロはそのことを受けて、「キリスト・イエスにあって歩みなさい。」と言っているのです。では、この「キリスト・イエスにあって歩みなさい」、とは更にどういうことだろうか?―抄訳聖書では次のように言っている。
抄訳聖書・コロサイ2:6:「彼(キリスト・イエス)との一致の中に<にならって>歩みなさい。」
先週27日、安倍元首相の国葬が行われ、その葬儀の様子がテレビ中継されていた。会場の日本武道館に安倍元首相の家族と昭恵夫人が遺骨を持って到着すると、岸田首相が出迎え、儀仗隊長を先頭に、参列者の待っている武道館の中に入って行った。「彼との一致の中に<にならって>歩きなさい。」という言葉を今読むと、その時の様子が思い出される。儀仗隊長を先頭にして、その儀仗隊長の独特な歩き方に倣うように、岸田首相は歩み、昭恵夫人やその家族の人々も、歩き方までは倣っていなかったが、スピード、テンポにおいては同じようにして歩んで行った。「彼との一致の中に<にならって>歩きなさい。」とはそういうことなのだろうと思う。キリストとすべてにおいて一つになり、一心同体になるということである。そして、「歩みなさい」の「歩み」とは、信仰者の信仰生活のことで、その「歩み」に、信仰者の信仰の質が現われる。だからパウロは、その信仰の本質について、次のⅤ7で、具体的に4つの動詞で表現している。その4つの言葉とは、「キリストの中に①根ざし、また②建てられ、また、教えられたとおり信仰を③堅くし、あふれるばかり④感謝しなさい。」という、4つである。ここに、信仰とは何か、その本質は何かということが語られている。では、一つ一つ見て行こう。
【本論】
(1)キリストの中に「根ざす」こと
文字通り、「根ざす」ことです。私たちのイエス様に対する信仰の根が、イエス様の中にどんどん入って行って広がり、深まって行く。それによってイエス様としっかりつながり、イエス様という地から引き抜こうとしても引き抜くことが出来ないほどの状態のことである。それにより、イエス様という養分が一杯詰まった「知恵と知識との宝がすべて隠されている」)(Ⅴ3)土壌から、沢山の養分を吸収して成長して行く状態である。そして沢山の実を結んで行くのです。それが私たちの信仰生活の在り様です。ちょうど、「撒かれた種と4つの地の譬え」(マタイ13:3~23)とは真逆の関係で、その譬えでは、撒かれたイエス様の言葉が、私たちの心の状態如何で、どう実が結ばれるか、結ばれないか、ということだったが、どちらでも共通して言わんとしていることは、イエス様としっかりと交われば実が結ばれるということです。イエス様との関係の大切さを言っているのである。
(2)キリストの中に「建てられる」こと
これは、「根ざす」とは逆方向だが、建物がしっかりと建てられて行くためには、先ず①土台造りが大切であり、その上で、どのように柱を組み、屋根を張り、家を建てたら良いのかという②建物の建て方も重要だということ。だから、聖書はこう言う。
Ⅰコリント3:10~11:「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」
イエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」と質問した時、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えると、イエス様はペテロに、「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言った。(マタイ16:15~18)これは、教会というものは私たちの信仰告白の上に建てられるものではなく、その信仰告白をもたらした岩なる、土台なるキリストの上に建てられるものであることを言っている。そうです。私たちの信仰の土台は、私たち自身の信仰告白ではなく、その告白をもたらす岩なるイエス様です。
※私たちはこのイエス様の上に私たちの信仰を築くのです。
そして次に、Ⅴ10:「そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」の建て方については、これは、イエス様との関係、信仰の質について言っていることです。次のみことばに注目しよう。
Ⅰコリント3:12~15:「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
金、銀、宝石の信仰、イエス様との関係というのは、問題試練の火が降りかかって来ても、決して焼失しないという強固な関係のこと。深い親密な関係のこと。木、草、わらの信仰、イエス様との関係というのは、問題試練の火が降りかかって来たら、すぐに焼失してしまうような弱い関係、浅い関係のこと。ちょうど、「種まきの譬え」で言うなら、岩地やいばらの地のような信仰のことです。
※私たちは、土台であるイエス様との関係においては、金、銀、宝石のような信仰、また、良い地のような信仰を持ちたいものです。そのためにはどうしたらよいだろうか?―そのためには、私たちには聖霊と火によるバプテスマが必要なのである。
マタイ3:11~12:「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
この「火」とは、Ⅰコリント3:13:「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」の火です。終わりの時に、イエス様が再臨される時、その火によって私たちの信仰の真価、質は試されるのです。もし、私たちの信仰が、イエス様との関係における歩みが、木、草、わらのようなものであるならば、つまり、信仰故に試練や問題が来た時に、容易にイエス様から離れてしまうような信仰、イエス様を第一にしないような関係であるならば、救われて天の御国に入れても、報いとしては何も残らない。しかし、試練問題を通っても、イエス様から離れることなく、ますますしがみつくような金、銀、宝石のような信仰なら、終わりの日には豊かな報いがあるのです。Ⅰペテロ1:7:「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」とある通りです。
(3)信仰を「堅くする」こと
「堅くする」というと言って、がちがちに固くなると言う意味ではない。信仰とはイエス様との関係ですから、その関係、絆を強固なもの、揺るがないものにするという意味です。どんな嵐が風、酷い雨が撃ちつけても、また地震や津波が押し寄せても、離れない、剥がされない、飛ばされない、壊されないというようなイエス様との関係、信仰のことです。しなやかに、やわらかに、イエス様と一枚岩のように、大木に巻き付いた蔓のように、どんな力が加わっても、どんな力が働いても、イエス様から離されないということです。パウロはそんな信仰者の信仰の堅さ、イエス様との強固な関係について、こう言っている。
ローマ8:35~39:「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
またそれは、信仰者に結ばれる「誠実(忠実)、柔和、自制」の実でもある。私たちがイエス様にしっかりと結びついているならば、聖霊様にしっかりとつながっているなら、「誠実(忠実)、柔和、自制」という信仰者自身の中に実が結ばれるのである。
(4)あふれるばかり「感謝する」こと
「あふれるばかり」とは、新改訳聖書の「脚注」によれば、「信仰において」、「キリストにおいて」ということ。つまり、私たちは神様との関係において、イエス様との関係において、私たちには当然神様への感謝があるのだということ。何故なら、神様は私たちにとってどんなことがあっても変わることのない方であり、私たちの根源であり、私たちのすべてなるお方だからです。命も、信仰も、環境も、何もかもすべて神様が私たち与えて下さったものからです。だからパウロは、テサロニケの教会の人々に、次のように書き送ったのです。
Ⅰテサロニケ5:16~18:「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
【結論】
もう一度今日のみことばの箇所を読もう。そして祈ろう!
コロサイ2:6~7:「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」
―祈り―
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