【前置】
今日は、先週開いた聖書箇所のⅤ3~Ⅴ5の個所から、「レビ族の相続地、私たちの相続地」と題してメッセージを取り次ぐ。テーマは、レビ族に割当てられた相続地とは何だったのか、そして、それは私たちにとってどういう意味を持っているのかということです。
【聖書箇所】
ヨシュア14:3~5:
【序論】
Ⅴ3~Ⅴ4a:「モーセはすでに二部族と半部族とに、ヨルダン川の向こう側で相続地を与えており、またレビ人には、彼らの中で相続地を与えなかったからであり、14:4 ヨセフの子孫が、マナセとエフライムの二部族になっていたからである。」
聖書はここで、先ずヨルダン川を越える前のモアブの地で、二部族と半部族、即ち、ルベン族とガド族、マナセの半部族とには相続地が割当てられていることを語っている。詳細を知りたい人は、民数記32章、ヨシュア記13:15~32を後で読んでみてください。今日は、レビ人、即ち、レビ族には相続地が分け与えられなかった、ということに焦点を当てたい。何故分け与えられなかったのか?―その理由には2つある。
一つは、ヨシュア13:33:「レビ部族には、モーセは相続地を与えなかった。主が彼らに約束されたとおりにイスラエルの神、【主】が彼らの相続地である。」ということ。だから2部族と半部族、そして、他の9部族と半部族のように、具体的な相続地が、モアブの地やカナンの地にないということである。そして、二つ目は、ヨシュア14:4a:「ヨセフの子孫が、マナセとエフライムの二部族になっていたからである。」ということである。その二つ。
これはどういうことか?―この二つは別々のことを言っているようだが、実はこれは一つのことを言っているのである。今日はそのことに焦点を当てる。今日の個所は、「なんて神様の愛と恵みは豊かで素晴らしいのだろう!神様の、私たちの救いと贖いに関する御計画、御心はなんと大きく、私たちのこの頭でとうてい考えられないほど素晴らしいのだろう!」と感じながら準備をした。
先ず、レビ人とはどういう人々であっただろうか?ということについて確認しておきたい。そもそもレビ人とはどういう人だっただろう?―そう、ヤコブの子供として、パダン・アラムの叔父のラバンの下にいた時に、レアとの間に3番目の子供として生まれたレビの一族。この時ヤコブには、男だけで12人の子が生まれた。順番は別にして、レアとの間に、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンの6人、レアの女奴隷ジルパとの間に、ガドとアセルの2人、ラケルとの間に、ヨセフ、そしてラバンの下を去って後、カナンの地で生んだベニヤミンの2人、それから、ラケルの女奴隷ビルハとの間にダンとナフタリ2人、計12人です。しかし、ここで「ヨセフの子孫が、マナセとエフライムの二部族になっていたからである。」とあるように、実際にモアブの地とカナンの地で割当地を持ったイスラエルの12部族には、ヤコブの11番目の子ヨセフにエジプトで生まれたマナセとエフライムの各部族が加わっていたわけで、そうすると、レビ族を含めると13部族になってしまい、計算が合わなくなる。それで、レビ族だけがどうして相続地を持つ部族から外されてしまったか?何か、相応しくない理由があったのだろうか?―否、そうではなく、そこには神様の素晴らしい計画があったのである。それが素晴らしいのである。それを見るために、民数記を開く。
【本論】
民数記1:44~54:「以上がモーセとアロン、またイスラエルの族長たちが登録した登録名簿である。この族長たち十二人は、それぞれ、自分の父祖の家のための者であった。それで、父祖の家ごとに登録された二十歳以上のイスラエル人で、イスラエルで軍務につくことのできるすべての者、すなわち、登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。【主】はモーセに告げて仰せられた。『レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。』イスラエルの人々は、このようにし、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに行った。」
証しの幕屋で神に仕える者として、また、他の12部族が直接幕屋に近づくことがないようにと、また、近づいて神の怒りに触れることがないようにと、特別に聖別された人々であった。そういう意味でも登録されなかったのである。登録するに値しないとか、数えるに値しないとかということではなく、彼らには、「聖所に仕え、神に仕える」という重要な使命があった。また、他の12部族が幕屋に触れ、幕屋に関わることをすることにより、神の怒りに触れて滅びることがないようにと、祭司として、仲介者として間に立つという役割があったからである。言い変えれば、彼らは他の部族の代わりに、神に仕えたのである。それが、「主が彼らの相続地である。」ということ。そのことをもう少し見て行こう。
民数記3:11~13:「【主】はモーセに告げて仰せられた。『わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。初子はすべてわたしのものだからである。エジプトの国でわたしがすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは【主】である。』」
12部族の初子に匹敵する者として、聖別された部族であり、主に仕えるために、主に特別に贖われた部族であることを言っている。「彼らはわたしのものである。わたしは【主】である。」とは、そのこと。そして、このことをもう少し詳しく書いてあるのが、Ⅴ40~Ⅴ51である。
Ⅴ40~Ⅴ51:「【主】はモーセに仰せられた。『イスラエル人のすべての一か月以上の男子の初子を登録し、その名を数えよ。あなたは、わたしのために、わたし自身、【主】のために、イスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取り、またイスラエル人の家畜のうちのすべての初子の代わりに、レビ人の家畜を取りなさい。』モーセは【主】が彼に命じられたとおりに、イスラエル人のうちのすべての初子を登録した。 その登録による、名を数えられたすべての一か月以上の男子の初子は、二万二千二百七十三人であった。【主】はモーセに告げて仰せられた。『レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を彼らの家畜の代わりに取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは【主】である。レビ人の数より二百七十三人超過しているイスラエル人の初子の贖いの代金として、ひとり当たり五シェケルを取りなさい。これを聖所のシェケルで取らなければならない。一シェケルは二十ゲラである。そして、この代金を、超過した者たちの贖いの代金として、アロンとその子らに渡しなさい。』こうしてモーセはレビ人によって贖われた者より超過した者たちから、贖いの代金を取った。すなわちイスラエル人の初子から、聖所のシェケルで千三百六十五シェケルの代金を取り、モーセは、【主】の命により、この贖いの代金を、【主】がモーセに命じられたように、アロンとその子らに渡した。」
これは一体何を意味するか?―初子(初物)をもって、全体を聖いとする奥義である。
ローマ11:16:「初物が聖ければ、粉の全体が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。」
初物とは、イスラエル全体にとってはレビ族であり、それゆえに、粉の全体=イスラエル全体は聖いものであり、根もレビ族であり、根が聖ければ、幹が伸びて、幹から出て来る枝であるイスラエルは聖いということである。これは私たちで言うならば、初物とはイスラエルであり、イスラエルの子孫として生まれたイエス・キリスト。そして、根もイスラエルであり、イスラエルの子孫として生まれたイエス・キリストである。このお方によって私たちは救われ、贖われ、聖められたのである。この後、異邦人である私たちを、野生種であるオリーブの木から切り取られた枝、イスラエルを栽培種のオリーブの木に譬えて、私たちの救い、選び、聖別というものが、神の一方的な、大きな憐れみと恵みによってなされたことが語られている。
そう!栽培種のオリーブの木こそ、イスラエル全体にとっての祭司としての、仲介者としての、神殿で仕え、贖いをなすレビ人、レビ族であり、私たちにとっては、祭司であり、王であり、仲介者であるイエス・キリストなのである。
※私たちは、ちょうど超過分の273人の贖いの代金を払って、ぴったりイスラエルの民全体の祭司として、贖い主として、神殿で仕えるレビ人、レビ族のように、イエス様も私たちの罪の贖いを完全にして下さって、そして、祭司として、今も御座にあって執り成していて下さる。
※だから、感謝しよう。そして、私たちも同じように、自分たちを聖別された、聖なるささげもの、神によって贖われた神のものとして、神にささげよう。それが、レビ人の相続地が神であり、私たちの相続地も神であるということである。
【結論】
私たちは、いずれは老いる。いずれは消費期限を迎える。しかし、私たちの本体、根、初物は、私たちのために十字架に架かり、3日目によみがえって下さったイエス・キリスト、主御自身です。この方に、私たちのしっかりと目を留めて、やがて相続すべき財産として受け取って行こう。この方との関係だけを大切にして歩んで行こう。
詩篇73:25~26:「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」
このお方に、私たちの相続地、相続すべき財産として目を留めて行こう!
マタイ16:26:「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
救い主であり、贖い主である、まことのいのちであるイエス様との関係を買い戻すために、私たちが差し出すことの出来るものなど、私たちにはない。ただ、私たち自身だけを捧げるだけです。それが私たちが出来る唯一の礼拝、ささげものです。
ローマ12:1:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
―祈り―
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