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2022.10.11 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

9 分前
読了時間: 9分

【タイトル】:エペソ書(21)「主人と仕える人に対して:主に従うように、互いに従いなさい。」

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【聖書個所】

エペソ6:5~9:「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。6:6人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、6:7人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。6:8良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。6:9主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」

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【前置】

 今日はエペソ6:5~9から、聖書の中では主人と奴隷という関係になっているが、今日ではそういう関係はもう普通は見られないので、一般的な「主人と仕える人たち」という関係、会社で言うなら、雇い主と雇われている人、社長と社員、上司と部下という関係の中での、「主に従うように、互いに従いなさい。」というみことばについて解き明かす。

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【本論】

 先ずⅤ5~V8に、奴隷に対する、一般的に言うなら「仕える人」に対するメッセージが語られている。

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(1)仕える人に対するメッセージ

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V5~V8:「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。6:6人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、6:7人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。6:8良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」

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 聖書は奴隷に対して、「仕える人」に対して、どのように仕え、どのように従え、と言っているか?―V5:「キリストに従うように」、つまり、「主に従うように」である。これが、今まで語って来た教会の中における兄弟姉妹同士の関係、夫婦の関係、親子の関係について語って来たことと同様、「主人と仕える人」という関係においても、基本的な土台となる教えです。そして、そこから幾つかの具体的な教えが出て来る。

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 先ず「恐れおののいて」ということ。これは、「尊敬して、敬って」ということ、「主人を主人として認めて、尊敬して、敬って」と言うことです。ペテロも、そういう関係の中に置かれているクリスチャンたちに対して、こう書き送った。

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Ⅰペテロ2:18~20:「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。2:19人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。2:20罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」

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 普通ならば、「えー?」と思うことだろう。しかし、パウロも、またペテロも、自分の主人を主人として、どんな主人であっても、真心から仕えなさい。善を行いなさいと言う。何故か?―今日のエペソ書で言うなら、「キリストに従うように」、また、ここで言うならば、Ⅴ19:「神の前における良心のゆえに」とあるように、「自分と主人」との関係を、「自分と主、自分と神」という関係に置き換えて見るように、と聖書は教えるからである。

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 ペテロもパウロも、ただ徒(いたずら)に、闇雲に、盲目的に仕えろ、従え、と言っているわけではない。私たちが、私たちの神を神として、私たちの主を主として信じるのならば、自分の主人に対しても、上司に対しても、そのように「恐れおののいて」(エペソ6:5)、「尊敬の心を込めて」(Ⅰペテロ2:18)仕えるように、従うようにと言っているのです。自分と神、自分と主イエス・キリストという関係が土台にあるからである。ペテロはその後、こう言っている。

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Ⅰペテロ2:21~24b:「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。2:22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。2:23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。2:24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」

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※主人と仕える人、主人としもべという関係において、神が、また主イエス・キリストが、私たちが私たちの主人に対して仕えて行く、従って行くモデルなのである。

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 次に、Ⅴ5:「真心から」ということは、嘘、偽り、見せかけのない心ということだから、Ⅴ6:「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく」ということでもある。そして、このところの結論として、だから、Ⅴ6~V7:「キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、6:7人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」と、パウロは言う。

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※あくまでも、「自分と主」いう関係の中で、「主に従うように、互いに従いなさい。」ということなのです。

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 次に、「主人と仕える人」という関係において重要なことが、Ⅴ8で語られている。

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V8:「良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」

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 ここには「奴隷であっても自由人であっても」という言葉があって、「奴隷」に対して、「自由人」という言葉が出て来るが、今日のエペソ書にある「主人と奴隷」、また、テーマである「主人と仕える人」ということから、「奴隷」と言う言葉があっても分かるが、何故「自由人」という言葉が出て来るのだろう?―それは、そこには、「主に従うように、互いに従いなさい。」という「主人と仕える人」の関係において、決して見落としてはならない重要なことがあるから。それは、「私たちに与えられている自由を、私たちに与えられているものを何のために使うか」という問題です。

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 「主人と奴隷」という関係において、「主人と仕える人」という関係において、仕える人が主人に仕える、仕えなければならないというのは分かり易い。何故なら、そういう関係だからです。初めに言ったように、それを「雇う人と雇われている人」という関係で見るならば、そこには雇用契約に基づいた雇用関係があるから。しかし、自由人の場合はそうではない。自由人の場合は、その関係とは関係のない関係だから、そのような自由人が誰かに仕える、誰かに従うというのは、その人が自らそうしなければ成り立たないことだからです。奴隷や雇用関係の中で仕える人の場合は、主人に対してそのような関係なので、仕えなければならない、従わなければならないが、自由人の場合はそうではない。そうしなければならない義務も責任もないからです。そうする必要もないからです。

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※ここに、「主に従うように、互いに従いなさい。」という教えの重要な点がある。それは、救われた私たちが、その贖われた自由をどう使うかと言う問題である。また、救われた私たちが、救われて与えられたいのちをどう使うかという問題である。この点においてパウロは、その自由は何のために使われたら良いのか、その自由はどのように使われたら良いのかについて、「主に従うように」という基本的土台から、やはり主イエス・キリストが為してくださったことをモデルにすべきであることを教えている。

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ピリピ2:5~7a:「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。2:6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」

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 イエス・キリストは神の子としてのいのち、神の子としての自由を、私たちを救うために、御自身を十字架につけるという選択をされ、それを実行された。だから、私たちもそのような心構えで主人に仕えることが良いのである。そのように主に従うことが求められているのである。

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(2)主人に対するメッセージ

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V9:「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」

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 「奴隷に対して同じように」の「同じように」というのは、Ⅴ5~V8で奴隷たちに語られていたように、ということです。どのように語られていたか?―「キリストに従うように、恐れおののいて真心から従いなさい。」(V5)、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、6:7人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」(V6~V7)というように、「奴隷に対してふるまいなさい。」

というのです。

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 雇用関係における「主人と仕える人」との関係であれば、「おどすことはやめなさい。」とあるように、パワハラやセクハラ、モラハラのようなことは止めなさいということ。いつの時代でも、「主人と仕える人」という主従関係が生まれると、立場を用いて、権力を用いて、そのようなことが行なわれる。教会でさえも、時にそのようなことが起こる。だからイエス様は、当時の「主人と仕える人」という関係のある社会、権力が生まれている社会について、弟子たちの中で「誰が偉いか、誰が上にあるか」というようなことを言い合っている弟子たちに、次のように言った。

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マタイ20:25:「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」と。

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 しかしイエス様は弟子たちに、イエス・キリストを主と信じる者たち、主に仕える者たちは、そうであってはならないと語った。

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マタイ20:26~27:「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。20:27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」

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 パウロがエペソ6:9で言っていることと同じようなことを言っている。それは、キリストがそうされたのであって、もし私たちがキリストを主と信じて従うなら、主人も仕える人に対して同じようにしなければならない。主人も主に従うように、互いに、仕える人に対しても仕えなければ、従わなければならないのです。それが、私たちの主イエス・キリストがなされたことだから。

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マタイ20:28:「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

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【結論】

 私たちは、どんな関係でも、誰に対してでも、教会の中の兄姉や教職者に対しても、夫婦の間に於いてでも、親子の関係に於いてでも、そして今日のように、主人と仕える人との関係においてでも、私たちは、主に従うように、お互いに仕えなければ、仕え合わなければならないのです。

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―祈り―


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<考えてみよう>

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1.今日の「奴隷と主人/一般に主人と仕える人」、これまで学んだ「教会の中での兄弟姉妹」、「夫婦」、「親子」という関係を、お互いに仕え合う関係として見た場合、聖書は何が基本的な土台であると教えているだろうか?

 

2.その土台を、今あなたが置かれている人間関係の中に置かれたとしたら、あなたは何をしなければならないだろうか?あなたはどうあらねばならないだろうか?

 
 
 

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