2025.10.25 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
【タイトル】
霊的戦い(20)「霊的権威が与えられている理由」
【聖書個所】
使徒26:16~18:「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。26:17わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。26:18それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」
【前置】
今まで2回、マタイ10:1を中心に、霊的戦いのための権威について学んで来た。その学んだことを短くまとめると、イエス様が12弟子を選び、その弟子たちに霊的権威を授け、御国の福音を宣べ伝えさせ、病の癒しや悪霊追い出しを行わせるために遣わしたように、今日の私たちにも、ペンテコステの日以来今日まで、聖霊のバプテスマによる霊的権威という油を注ぎ、それによって同じように病の癒しやさまざまな奇跡が伴う福音宣教のわざを行わせ、それぞれの地域から始まって世界中に福音を宣べ伝えるために私たちは遣わされているということだった。
今日も続けて私たちに与えられている霊的権威について学ぶが、今日のテーマは、私たちに霊的権威を与え、私たちを遣わす神様の目的は、ただ御国の福音を宣教させ、しるしや不思議を行わせるという、外に向かっての働きだけでなく、教会、人々、場合によっては私たち一人ひとりの内に向かっての働きのためでもあるということ。その内に向かっての働きとは、教会の、人々の、そして私たち一人ひとりの霊的覚醒のためであるということです。つまり、「もう十分知っている」ということが、実はそうではなく、知らなければならなかったことも、実は「全然知っていなかった」というように、「神様に対して、御言葉に対して、真理に対して霊の目が開かれて、さらに見ることが出来るように、さらに理解することが出来るようにと、霊的権威、油注ぎというものが私たちに与えられているということを学ぶ。
聖霊のバプテスマにより、油注がれて遣わされる者への働きはそういうためのものであると、主はパウロを召して遣わす時に語られた。それが、今日の聖句、使徒26:16~18のみことばである。このV18で、遣わされた者に対する、霊的戦いという点での、遣わす目的が語られている。前半が今日のテーマの霊的覚醒について、後半が福音宣教についてである。今日は、このパウロも語っている、霊的覚醒に関する霊的戦いの権威について、先ず使徒8:9~24から語る。
【聖書個所】
使徒8:9~24:「ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。8:10小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、『この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。』と言っていた。8:11人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。8:12しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。8:13シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。8:14さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。8:15ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。8:16彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。8:17ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。8:18使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、8:19『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。』と言った。8:20ペテロは彼に向かって言った。『あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。8:21あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。8:22だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。8:23あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。』8:24シモンは答えて言った。『あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。』」
【本論】
この後、ペテロは彼のために祈り、シモンは悔い改めて祈ったかどうかについては、聖書は何も語っていない。しかし、聖書はここで一つのことを明確に語っている。それは、たとえ人は信仰を持っても、霊の目は閉じたままでいるということがある。その目が開かれるためには、悔い改める、方向転換する、考え方を変える、という霊的覚醒が必要だということ。
ピリポがサマリヤで宣教の働きをするまでは、シモンを始めとして、人々はしるしや不思議といったものに心が奪われていた。シモンはそれをする者として、人々はそれを見て、驚き、感心する者として。そしてその状況は、特にシモンの場合は、それに捕らわれていた者として、信仰を持っても変わらなかったようである。
V12~V13:「しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。8:13シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。」
「しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。」とある通り、信仰を持ってバプテスマを受けても、彼の関心の的は変わっていなかった。そのことが明確に分かるのが、ピリポの働きにより、サマリヤの人々が神のことばを受け入れた、ということを聞いてやって来たペテロとヨハネの働きにより、人々が聖霊を受けた時、そこに、聖霊が与えられたことが分かるしるしが彼らに起こったので、シモンは、そのしるしを行うことの出来る権威を金で買おうとした。彼は、聖霊が与えられるという霊的なことに全く目が開かれておらず、それを彼の価値基準によって得ようとした。それで、彼はお金を持って来て、ペテロとヨハネにこう言ったのです。
V19:「『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。』と言った。」
そんなシモンにペテロはこう言った。
V20~V23:「ペテロは彼に向かって言った。『あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。8:21あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。8:22だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。8:23あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。』」
このように、信仰を持ってバプテスマを受けても、心が神の前に正しくない、つまり、「神に対してまっすぐでない」、罪の赦しは与えられても、神との関係において真っすぐでないということがあるということです。また、「まだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいる。」ということがあるということです。イエス様がいた1世紀には、ある程度の解剖学はあったので、人体や動物の胆嚢にある胆汁(胆汁はアルカリ性の苦味と酸味の混ざった液体)は苦いものであると分かっていたので、こう書かれていたのかもしれない。しかし、それだけではなく、これはむしろ、当時既に確立していた紀元前4世紀に活躍したヒポクラテスというギリシャの医者が体系化した、体の健康や病気や気質というのは、血液と粘液(痰とか唾)、黄胆汁と黒胆汁の4つの体液のバランスで決まるという理論があり、黄胆汁が多いと、短気で怒り易くなるとされていたので、「苦い胆汁」、つまり、イエス様に対する信仰が与えられて、神の前には赦されていても、人を赦さないという苦い心、神の前に正しくない心を持っている人が神の民の中に、教会の中にいるということなのである。これは本当に驚くべきことである。
先週金曜、十条キリスト教会で開かれた「祈りのリバイバル」という聖会に出た。そこである先生に出会い、その方はこう語っていた。この先生は、呼ばれていろいろな教会を訪問するが、今非常に危機感を抱いているという。それは、よく言う教会の少子高齢化という問題ではなく、教会の霊性の問題、つまり、これは私も良く語ることだが、どこまで教会、またクリスチャンは神を求めているか、神を神として第一にしているか、神との関係をどこまで大切にしているかという問題を語っていた。現在、礼拝に100名以上集っている教会は、約440位あると言うが、コロナが終焉し、人々が教会での礼拝に集まり始めた時には、100名を超えていた教会の数は、今より少なかったという。礼拝出席者全体の数が減っているということから、これは何を意味しているか?それは、人数の少ない教会から多い教会に移動している人が増えたということである。それらの人たちは、何を求めて、より多く集まる教会に集うのだろうか?―洗練された礼拝、華やかさ、奉仕をしないでお客さんでいられること等、自分の好みや自分の都合に合わせて教会に集っているというような、自分中心という霊性を、その先生はそこに感じると言う。
【結論】
霊的戦いにおける霊的権威の問題と、この教会の霊性の問題とどう関係するのか?―それは、何のために聖霊が、何のために霊的権威が教会に、クリスチャンに与えられているのか、という問題である。 つまり、聖霊は、霊的権威は、見えるもの、聞こえるもの、触れえるもの、五感で感じ得るもののためではなく、目には見えない、しかし、無くてはならないものが無くてはならないものとして保たれるように、失われることがないようにと、それに気付き、それを知り、それを理解して悟るために与えられている権威であるということを、私たちは知らなければならない。
つまり、聖霊様が来ると、ただ私たちが奇跡やしるしを行うことが出来るというだけでなく、私たちを、失われることのない神様との関係の中に、真理の中に導いてくれるということなのである。
ヨハネ16:7~14:「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。16:8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。16:9罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。16:10また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。16:11さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。16:12わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。16:13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。16:14御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
聖霊様は、私たちをイエス様との関係の中に、義の中に入れて下さる。そして聖霊様は、イエス様を私たちの見るべきもの、追い求めるべきもの、栄光ある方としての現わして下さるのです。そのために、私たちに聖霊様の権威、力、霊的力が与えられているのです。
―祈り―
----------------------------------------------------------------------------------------
<考えてみよう>
次の( )に適当な言葉を入れてみてください。
1.これまでの2回のメッセージで、霊的権威が私たちに与えられる目的は、( )
と( )や( )といった奇跡を行わせるためであることを学
んだ。今日は、聖霊が私たちに与えられて、霊的権威が私たちに与えられている目的は、教会
や人々、私たちの( )のためであると学んだ。
2.どうして私たちには霊的覚醒が必要なのだろうか?今日は、ある先生の話から、その必要に
ついて、私たちに聖霊が与えられること、霊的権威が与えられることの目的が語られたが、自
分を振り返って、その目的は果たされているだろうか、・・・と考えてみよう。

コメント