2026.10. 4 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
【タイトル】:神の召しに生きる(7)「柴の中に燃える炎」
【聖書個所】
出エジプト3:1~12c:「モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。3:2すると【主】の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。3:3モーセは言った。『なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。』3:4【主】は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります。』と答えた。3:5神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』3:6また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。3:7【主】は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。3:8わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。3:9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。3:10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』3:11モーセは神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』3:12神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。…。』」
【本論】
今年の年間テーマ「召しに相応しい歩み」の7回目。出エジプト3:1~12の箇所から「神の召しに生きる」と題してメッセージを取り次ぐ。この箇所に、神に召された者である私たちの3つの姿が語られている。その姿とはどのような姿であろう?
(1)神と人(被造物)である自分との違いを明確に意識し、神への恐れを持って生きる。
モーセはエジプトから出、ミデヤンの地に住むようになり、そこで、その地の祭司のイテロの娘と結婚し、彼の羊を飼う者となっていた。そんなある日、彼が羊を追って神の山ホレブにやって来ると、不思議なものを目にする。柴の中で火が燃えているが、その火は柴に燃えついて行かないという不思議な光景である。彼は、「これは何だろう。」と近付いて行くと、柴の中から彼の名を呼ぶ声がした。その声は、これからモーセを召してエジプトへ遣わそうとする神の声だった。彼はその声を聞いて、「はい、ここにおります。」(V4)と答えた。
※そのモーセに語られた神の言葉と、その言葉に応答したモーセの姿に、神に召された者の姿の一番目のポイントがある。それは、神と人(被造物)である自分との違いを明確に意識し、神への恐れを持って生きるという姿である。
神はモーセに何を語られ、モーセはその言葉にどう応えたのだろう?
V5~V6:「神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』3:6また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」
神は神であり、人は人であるという境界線を示す違いが、「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」という言葉に明確に示されている。そして、「あなたの足のくつを脱げ。」という言葉にそれがもっと良く表されている。昔イスラエルでは、「自分のくつを脱ぐ」という行為をすることで、相手に「絶対服従」、或いは、「自分の権利は全部あなたに譲ります。」という「全面的権利譲渡、完全な権威移譲」を表した。
ルツ記4:7~9:「昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。4:8それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、『あなたがお買いなさい。』と言って、自分のはきものを脱いだ。4:9そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。『あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。』」
ボアズがルツを自分の嫁とするために、買戻しの権利を親類から譲り受けた時の話である。そして神はモーセに、「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と語ると、モーセは「神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。」と言った。
※ここに、神に召された者は、神と人(被造物)である自分との違いを明確に意識し、神への恐れを持って生きる者であるという第一番目のポイントがある。
(2)神の臨在を召しの保証として歩む。
そして神は、神の前に恐れを覚えて顔を隠したモーセに、こう言われた。
V7~V10:「【主】は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。3:8わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。3:9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。3:10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』」
エジプトに遣わすというモーセへの召命の言葉である。その召命の言葉を聞いてモーセはどうしたか?
V11:「モーセは神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』」
彼は、逃げるようにして出て来た40年前のエジプトでの出来事を思い出したことだろう。(出エジ2:11~14)そして、どうしてそのような自分なんかに、と思ったことだろう。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」とは、そのことである。そうすると、神は何と言われたか?
V12c:「神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。』」
またこの後神がモーセに、エジプトに行って語るべきことやすべきことを命じた時(出エジ3:15~4:9)、モーセは神にこう言った。
出エジプト4:10:「モーセは【主】に申し上げた。『ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。』」
そうすると、神はモーセに何と言われたか?
出エジプト4:11~12:「【主】は彼に仰せられた。『だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。4:12さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。』」
これは正に私たちの召しの姿そのものである。神は、私たちの召しに関して、次のように言われる。
Ⅰコリント1:26~31:「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。1:27しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。1:28また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。1:29これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。1:30しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。1:31まさしく、『誇る者は主を誇れ。』と書いてあるとおりになるためです。」
これが神の召しである。神が私たちを召されたのは、私たちに能力や資格があったからではなく、神の一方的な選びの召しなのである。この召しに、私たちが全面降参して従う時、つまり、自分たちの足のくつを脱ぐ時、神は、御自身が言われるように、私たちと共におられてわざを為して下さるのである。
※その時の姿が3つ目のポイントである。その姿は、今日のメッセージタイトルにあった「柴の中で燃える炎」なのである。それはどういうことか?
(3)神の召しに従順する時、私たちは「柴の中に燃える炎」となる。
「柴の中に燃える炎」とは、本来ならば当然燃え尽きてしまうような柴に過ぎないような者である私たちであっても、神は、私たちが神の召しに全面的に従う時、神は私たちの内で燃える炎となって下さり、御自身のみわざを為し、御自身の栄光を現わして下さるのである。これが召しに相応しい歩み、神に召されて生きる者の姿である。聖霊なる神が私たちの内に燃えているという姿である。
【結論】
ですから、私たちはひとり一人神に召された者として、その召しに、選びに忠実に従って行こう。従順して行こう。
―祈り―

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